4月15日。三重野康「五十歩と百歩は違う」

三重野 康(みえの やすし、1924年(大正13年)3月17日 - 2012年(平成24年)4月15日)は、第26代日本銀行総裁。

中学の最初の方は大分中学で学んでいる。同期に後の平松大分県知事がいた。一高の寮委員長を経験している。当時の校長は有名な安部能成であった。卒業後は、志が決まっていなかったのでたまたま受けた日本銀行に入行する。

仕事は面白くなかった。しかし三重野は思い直した。「どんなつまらない仕事でも、それをマスターしなければ、より良い仕事は回ってこない。、、、よしそれならなんでもよい、早く担当分野のプロになろうと」決心し励むと面白くなり、物価と金融システム安定を使命とする「日銀の重大な責務もわかってきた。

三重野は日銀では早くから頭角を現し、総裁候補とみられていた。そしてまさに1978年4月 -には理事、1984年12月 に 副総裁、そして1989年12月に総裁に就任した。5年の任期を全うし1994年12月に退任。副総裁時代から総裁時代初期は日本経済絶頂のバブル期であり、中期から後期はバブル退治に明け暮れた。佐高信からつけられた渾名は「平成の鬼平」であった。庶民の味方としてバブル後遺症の調整を行い、長続きする成長路線への基盤を作り直そうとした。歴史的にみて、その評価は分かれている。

仕事師・三重野が大事にした言葉。「窮して困(くるし)まず、憂いて意(こころ)衰えず」。困難に立ち向かう時に逃げるなと、唱える荀子の言葉だ。「組織のトップは、常にに周りからみられている。、、トップはどんな局面でも、物事に真正面から立ち向かう姿勢を、それもうわべだけでなく、しん底からそれを現わさなければならない」。中身は顔にも、背中にもでる。苦難に立ち向かう姿勢を崩してはいけないのだ。

三重野は読書家である。読書日記をつけていて年平均80冊という。私の2017年の読書日記は84冊であるから、同じようなペースか。三重野は伝記と古典を好んだ。また山本周五郎の時代小説を若い頃から愛読していた。山本周五郎にはファンが多い。ノンフィクションの沢木耕太郎もそうで、最近『山本周五郎名品館』全4巻の傑作短編アンソロジーを編んでいる。

「五十歩、百歩」は、どちらも同じようなものだという意味で使われる。しかし三重野康は仕事の場面では、この二つは差があるという。退くときには、五十歩なら踏みとどまって橋頭堡となり、それが次の踏み台になって前進できると考えている。長い目で前に進むことを考えながらしぶとく仕事をしていた姿を彷彿とさせる言葉である。



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