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「名言との対話」5月7日。田中健五「新鮮な頭蓋骨を探して来なさい」

田中 健五(たなか けんご、1928年6月4日 - 2022年5月7日) )は、日本のジャーナリスト、編集者、実業家。享年93。

海軍兵学校、旧制東京高校、東大文学部卒。1953年に文芸春秋社入社。

新入社員時代は、池島信平編集局長から指導を受ける。『文学界』では、石原慎太郎江藤淳らと親交を結ぶ。『大世界史』の通史では、林健太郎ら学者と出会う。オピニオン誌『諸君!』初代編集長となり、本田靖春、柳田邦男、岩川隆らのライターを育てた。三島由紀夫には1970年8月に、政治的な思想についての原稿を頼んだ。三島は語り、それが「革命哲学としての陽明学」となった。その数か月後に三島の自衛隊乱入があり、それを田中は予想していた。田中は、三島の父の平岡梓に「倅・三島由紀夫」を書かせている。それは私も読んだ記憶がある。

「対談、座談会のまとめは、速記録に頼ってはいけない。対談の場の雰囲気を思い出しながら、原稿を新たに書くつもりでまとめていく。発言者は、こういうことを言いたかったのだろうかと疑問に思ったら、遠慮せずに加筆する。たとえそれが逸脱したことであってもいい。著者校正の際に発言者が訂正してくれるから心配はない」

文藝春秋』編集長となり、立花隆児玉隆也を起用し、外国人記者クラブで、文芸春秋の記事にコメントしたのをきっかけに火がつき、田中角栄首相を退陣へ追い込んだ。「自民党というのは、ぬえのような存在で、洗い直すことはできなかったけど、立花君はクールにやったらどうだろう、と」と、回想している。「特集・田中角栄研究は、正義感からではなく好奇心から発した企画である。新聞その他のマスコミが教えてくれないから本誌が企画するのである」

1977年『週刊文春』編集長。『タイム』『ニューズウイーク』のようなクレディビリティ(信頼性)のある週刊誌に変えると宣言し、週刊誌ブームの中で梶山季之らの助けを借り、上之郷利昭、上前淳一郎、田原総一朗ら若手ライターを起用し、『週刊文春』に革命を起こした。

「編集者は、よくよく考えなければならない。これと見込んだ編集者に、物書きは誰にも言えないこと、お金のことや異性関係を相談することだってある。それをいちいち外に漏らしていたら、信頼されない。黙して、みんな墓場まで持っていく」

1988年、第7代文藝春秋社長に就任。花田紀凱を低迷していた「マルコポーロ」の編集長に起用したが、ホロコーストは捏造とした記事で世界中から批判を浴びた「マルコポーロ事件」で花田を解任し、自らも社長を退任し、会長に退いた。

「昭和史」研究の第一人者の半藤一利は同期入社である。半藤は専務取締役まで昇進したが、最後は退社し「歴史探偵」として活躍した。タカ派スキャンダル路線の田中と半藤のライバルは体質的にあわなかった。半藤は2021年、田中は2022年に亡くなっている。

田中は毎朝、地下鉄の売店やまちの書店など3カ所を必ず回って自分がつくった雑誌の売れ行きをみる習慣をもっており、読者の反応を常に自分で確かめていた。

「物事を知るには、他人の経験と頭を借りることだ。人ひとりの頭脳などたかが知れている。10人の優秀な人を知ったなら、君ひとりで10個分の頭蓋骨を持ったことになるじゃないか。昼飯代などいくらでも出すから、とにかく、新鮮な頭蓋骨を探して来なさい」。これは田中の指導を受けた編集者・斎藤禎が言われた言葉だ。

名編集者として大をなした田中健五という人物は、どの仕事についても人脈形成を怠らなかったし、その都度、新たな挑戦をしている。その原動力は、正義感ではなかった。好奇心だ。「学歴のない田中角栄がなぜ首相になれたのか」。それは好奇心あふれる読者の目線である。メディアの退潮がいわれる現在も、独り勝ちの「文春砲」に今も田中健五の好奇心あふれる目線は生きているようだ。


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