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「名言との対話」1月30日。フランクリン・ルーズベルト「恐れなければならないのは、恐怖心そのものだけだ」

フランクリン・デラノ・ルーズベルト(英語:Franklin Delano Roosevelt、[ˈfræŋklɪn ˈdɛləˌnoʊ ˈroʊzəˌvɛlt]、1882年1月30日 - 1945年4月12日)は、アメリカ合衆国の政治家、弁護士。アメリカ合衆国大統領。

ハーバード大学では政治を主専攻、英語と弁論じつを副専攻。セオドア・ルーズベルトのの姪と結婚。

ニューヨーク州の弁護士、31歳から7年間海軍次官。この間にスペイン風邪に罹患。38歳民主党副大統領候補、小児麻痺(ピリオ)に罹患し公の場から姿を消す。9年ぶりに復帰しニューヨーク州知事に当選、その10か月後に大恐慌が始まった。1932年の大統領選挙に出馬し現職のフーヴァーを破り、51歳で大統領に就任。

TVAテネシー川流域開発公社の設置などニューディール(新規まき直し)を断行した。「3つのR」(救済relief。復興recovery。改革reform)。救済と復興は就任後100日を経て、次は失業対策などリベラルな政策に取り組んだ。現金給付は拒否し、「麻薬のように」、人間の精神を巧みに破壊する」とし、国家プロジェクトを開始する。そして芸術支援、黒人と女性の社会参加、社会保障制度、労働関係法、農業政策、、などに取り組んだ。その結果、国民所得は50%以上増えた。600万人の雇用が誕生。株価は底値から80%以上上昇となった。

外交では、中南米のラテンアメリカ諸国との関係改善、ソ連の承認が特筆される。当時はヨーロッパの戦争には巻き込まれたくないという考え方が強かったが、ルーズベルトは介入主義だった。

大統領のスタイルをみよう。専門家同士で意見を戦わせ、最後は自分で決断する。「友よ」、「アメリカ国民の皆さん」という呼びかけから始まるラジオ番組「炉辺談話」は30回放送された。記者会見は在任中に998回にのぼった。アットホームな雰囲気。校長先生と生徒の関係にようだった。

大統領職には平常心で取り組んだ。残業はしない。毎晩来客とカクテル。土曜の夜はポーカー。週3回は水泳。月に一度はヨットでクルーズ。ストレスを解消していた。

演説は何度も推敲し、自分の言葉で心を込めて語れるようになるまで練習して臨んでいた。

国民の支持が高く、2期目、3期目も大統領を続ける。ヒットラーの攻勢にさらされたチャーチルのイギリスへの武器貸与法を制定。日本への石油輸出停止。真珠湾攻撃。原爆の開発。ノルマンディ上陸作戦の成功。1944年には大統領職の4選を果たしたが、第二次世界大戦の終結までは見届けることはできなかった。

アメリカ合衆国大統領の在任期間は、1933年3月4日 – 1945年4月12日である。4期の途中で病気で倒れるまで12年の長きにわたり大統領職をつとめた。大恐慌のまっただ中に誕生し、第二次世界大戦の終了直前までの激動の期間である。

ワシントン、リンカーンと並ぶ偉大な大統領とされるなど評価が高い。説得力、指導力、先見性、行動力、リスクをとる性格、想像力、コミュニケーション能力。プラグマティック、柔軟。つまりルーズベルトは「グレイト・コミュニケーター」だった。

今回、佐藤千登勢『フランクリン・ルーズベルト』(中公新書)を読んだ。国民から「FDR]と親しみをもって呼ばれたルーズベルトの以上の実像がわかった。「恐怖心」を恐れよとして、勇気で大きな危機を何度も乗り切ったルーズベルトの楽観主義はリーダーの見本である。

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