「名言との対話」6月21日。須藤永次「強力な競争会社をたくさん作って、切磋琢磨していなかくちゃならない」

須藤永次(1884年6月21日〜1964年2月21日)は、日本の実業家。

山形県出身。尋常小学校を卒業し蚕物問屋に奉公する。9年の奉公を終える頃には、「世の中のためになり、世の中の人から感謝されるような商売」をやりたいと心に決める。

いくつかの挫折を経て、浅野総一郎との幸運な出会いがあり、商売に活路ができる。このとき、須永は自分より目上の人との交際をしようと決め、交際費は自分で支払うことととする。浅野は「稼ぎに追いつく貧乏なし忍耐」と揮ごうして須永を励ましている。須永はこの出会いに感謝し、浅野を生涯の師として事業に励んでいく。

1918年に吉野石膏採掘製造所をスタートさせる。1920年に倒産寸前の置賜郡是製糸を引き受け立て直しに成功する。1929年に生糸価格の暴落で倒産。

再起をはかり、1931年にリン酸石膏で焼石膏にするテストに成功し、安い価格の生産が可能になる。耐火ボード普及に弾みがつく。1937年、株式会社化する。その後も、幾多の困難を乗り越えて会社を発展させていく。

一般社団法人石膏ボード工業会では、「石膏ボードは、石膏をしん材とし両面を石膏ボード用原紙で被覆成型した建築用内装材料で、防火性、遮音性、寸法安定性、工事の容易性等の特徴をもち、経済性にも優れていることから「なくてはならない建材」として建築物の壁、天井などに広く用いられています」と説明している。

燃えない建材を大量に普及させるために、技術を直接指導し、ライバル会社を多く作って、石膏ボード業界を作った。自社の一人勝ちよりも、「業界」を作ることを使命としたのである。そして「石膏ボード工業会」を設立し、会長となって業界を指導している。

意識して「業界」をつくるという使命感は、若い時代に「世の中のためになり、世の中の人から感謝されるような商売」をやろうと決意したことが本物だったことを証明している。

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