6月24日。加藤清正「人は一代、名は末代。天晴武士の心かな」

加藤 清正(かとう きよまさ 永禄5年6月24日6月24日(1562年7月25日)-1611年8月2日)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。肥後熊本藩初代藩主。

「汝等はひとしく予が股肱腹心なり。使うところはその器に従うのみ」「 普段から武士道の心がけを練っていなかったならば、いざという場合に潔く死ぬことはできにくいものだ」など優れた武将としての心がけや信条は語り継がれている。

賤ヶ岳七本槍や、朝鮮の役での虎退治などでその勇猛さが印象に残るが、聖教にも志しており、いつも『論語』を読み、朱墨で点などをいれていた。

豊臣秀吉と加藤清正を対象とした名古屋の秀吉清正記念館を訪問した。二人は25歳の年齢差である。加藤清正等連署血判起請文は、秀吉と秀頼への忠誠を誓うもので、血判なのでやや黄土色の血のあとがわかる。関ヶ原では家康に味方して活躍したが、秀頼への誠忠は忘れていないエピソードも残っている。清正は武の人という面が強いが、実は誠忠の人でもあった。

熊本の白川はものすごい暴れ川と言われ何度も熊本城下を襲っていた。清正は上流から河口まで川の状態をつぶさに見てまわり様々な工事に取りかかり、堰を築き、井手を掘るなどあらゆる工夫をして田畑を豊かにした。また、大津街道など道づくりにも力を注いだ。表の並木には桜を、裏の並木には栗を植えることを指示している。今日の熊本のいしずえをつくった。熊本城が風雨で城が破壊したとき、柱を替えようとすると、その柱の裏に「良材は得がたいので城外の沢の中に代わりの柱が沈めてある」と記されており、探すと見事な材木が山積みされていた。国づくり川づくりにも卓越した見識と実績を残した。清正は深謀遠慮の名君だった。

人の体は一代で滅びる。しかしその人が行った業績は永遠に残る。今の一瞬ではなく、未来に名前を残せ。永遠に生きよ。それが優れた武士の心構えだ。この武士を志ある人と理解しよう。

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