3月24日。 尾上梅幸「名前は自分のものでなく、あくまで代々お預かりしたものである。その名をよくするも悪くするも、その役者の心掛けいかんなのである」

七代目 尾上 梅幸(しちだいめ おのえ ばいこう、1915年(大正4年)8月31日 - 1995年(平成7年)3月24日)は、歌舞伎役者。

歌舞伎俳優。、、、5世までは代々の尾上菊五郎の俳名であった。屋号音羽(おとわ)屋。6世〔1870-1934〕は5世菊五郎の養子。近世の名女方で、1911年から約20年間帝国劇場の座頭(ざがしら)として活躍。世話物を得意とし、また《四谷怪談》《土蜘(つちぐも)》など妖怪変化(ようかいへんげ)の役にもすぐれていた。7世〔1915-1995〕は6世菊五郎の養子。1947年襲名。女方・若衆役にすぐれ、父の没後は尾上菊五郎劇団を統率。1968年人間国宝に指定。

以上は平凡社の百科事典マイペディアの記述である。「尾上梅幸」という名跡は代々受け継がれてきた。本日取り上げる尾上梅幸は7代目である。尾上梅幸『拍手は幕が下りてから』の女形を演じる極意を興味深く読んだ。

女形の基本は踊りにある。女形の演技は、歩き方・階段の昇り方など年齢、職業で違う。女形の役者には、お茶、お花、針仕事、料理は欠かせない。かつらの鬢、襟の抜きなど後ろ姿が大切。仕草、お茶碗の持ち方、草履の脱ぎ方、、、、。

歌舞伎役者一般についても語っている。息をつめることと間のとり方が難しい。常に代役ができる準備をしておく。一芸に秀でる。体で覚える。腹式呼吸。

6歳で初舞台を踏んだ尾上梅幸は養子だった。実子と同じように育てられ、そのことを知ったのは15歳だった。この本では、「表を歩くときもぼんやり歩くな」「人間骨惜しみしちゃあならねえ」など何度も父からの教えについて語っており、後継者としての意識は高かった。梅幸は人生には浮き沈みがあり、下に下がったら勉強する。そうすれば次の波の頂点はもっと高くなる。そういう考えで、70年の歌舞伎役者人生を全うした。

7代目は、「名前」についてどう考えていたか。ある期間、預かっているだけだであるとの考えだった。この本が出た1989年には息子(藤純子と結婚)が「菊五郎」を継げるかは、本人の才能次第だと考えていたが、幸い息子は菊五郎を継いだのは幸せだっただろう。

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