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「名言との対話」4月24日。山下太郎「人間の真価は、困難のとき分かるものである」

山下 太郎(やました たろう、明治22年1889年4月24日 - 昭和42年(1967年6月9日)は、日本実業家。その業績から「満州太郎」「アラビア太郎」などと呼ばれた。楠木正成の子孫楠木正具の子孫にあたり、「楠木同族会」の初代会長を務めた。

戦前、実業家として満州経営に関わり、日本国内はもとより満州中国朝鮮台湾まで拡大し、「満州太郎」と呼ばれた。

戦後は復興のためにアラビア石油を設立。サウジアラビア、クエートの利権を獲得。1960年最初のボーリングで大規模海底油田を発見(カフジ油田)し、「アラビア太郎、100万ドルの笑顔」と世界中で報道され、以後「アラビア太郎」と呼ばれる。

幾多の困難を実行力で克服した山下太郎は、満州太郎、アラビア太郎との愛称をもらっている。まさに風雲児であった。郷里の秋田県横手市大森町に記念館があり2007年に訪問したことがある。

杉森久英『山下太郎』(講談社+α文庫)を読んだ。

札幌農学校で学んだ。当時の寄宿舎の舎長は内村鑑三新渡戸稲造と親友の宮部金吾である。山下太郎が後年、満洲の平原に事業を経営したり、アラビアの砂漠に石油の採掘をはじめたりしたのも、青年のころ、札幌農学校で吹きこまれた、曠野への夢の延長だった。
人に使われるのは、性に合わあないと、官吏や満鉄には入らず、実業家の道を歩む。
太郎が発明した「オブラート」事業。商機をつかむのは度胸だ。一旦これで行こうときめたならば、わき目もくれず、突進。あとは波まかせ、風まかせだ。これが山下商法の真髄である。並はずれたおしゃれで、洋服でも、帽子でも、靴でも、一流店の最高級品。「汽車はかならず一等に乗るんだよ。ホテルでも、旅館でも、その町で一番のところの、一番いい部屋に泊るんだよ」
満鉄の住宅建設という仕事に取り組む。山下は「満洲太郎」というあだ名で呼ばれるまでに成功する。満州の王者である。取締役などとしてかかわった企業は多い。太平興業、康徳興業、日魯漁業、東北振興、日本理化工業、日東化学、東北振興パルプ、三菱化成、東北興山、平安産業、日本鍛工、日本軽金属、新興窒素、三泰鉱業、 鐘 淵 実業、鐘淵、以上のほか、小さなのも数えれば、彼が社長、取締役に就任した会社は三十数社にのぼり、その子会社を入れれば、数十社になっている。

政治家や財界人にとって、山下太郎とつきあいがあるということが誇りとなり、山下を知らないことは肩身のせまいことになっていく。経団連会長の石坂泰三は山下との永年の交友を回顧して 「この間、山下君は一度も私を裏切らなかったと語る。
グレセスキーの罐詰を買ったときにしろ、江蘇米の密輸をたくらんだ時にしろ、彼は一歩まちがえば 千仭 の谷底へ転落する覚悟だった。「おれはまだ、日本の山下にすぎない。世界の山下になる」が山下の夢だった敗戦で六十を目の前にして、無一文になった。
山下太郎の交友の範囲は、おどろくほど広かった。満洲時代には、満鉄、関東軍の山本条太郎、松岡洋右星野直樹岸信介東条英機、、。 財界では、石坂泰三、松永安左ェ門、藤山愛一郎ら、、。
何かひとつの案にぶつかると、彼はできるだけ綿密な調査をし、いつまでもくよくよ考えている。調査費用も、いくらかかっても惜しまない。 彼の決心は、一刀両断に下されるのではなくて、うしろから押されるようにして、しぶしぶ行われる。その時の彼は、臆病そのものである。 しかし、一旦きまったら、実行は早い。すこしの遅滞も、逡巡も許さない。 やらないとなると、さっぱりしていた。山下のメモ癖は有名。
山下太郎が目をつけたのは、石油である。自分で石油を掘らなければ駄目だとして、日本輸出石油株式会社を設立する。海外とか、冒険とか聞くと、彼の意欲は急に燃え上るのである。 70歳前後に、サウジアラビアで石油採掘事業に入っていく。海底油田を日本側単独で採掘するという破天荒な事業に乗り出した。方々から金を集めて、何本掘っても、油が出なかったら、どういうことになるか。油が一滴も出ない油田は、卵を一個も生まない。一癖ある人物。快男児。山師。ハッタリ屋。しかし、「アラビア太郎」と呼ぶ者が出はじめる。そして一発で石油が出る。九八パーセントまで輸入に依存している日本の石油消費量の四分の一は、これでまかなえる見通しと記者会見で発表している。
彼の生涯は、成功と失敗のくり返しのきわどいものだったが。最後の大きなかけにも勝っている。

「好況の後には不況が来、不況が好況の前ぶれであるということは誰でも知っているが、いざ不況になってみると、これに処する態度は万人万様である。私は、自分の経験から、つねに誠実であること、積極的に努力することが一番大切であると信じている」
冒頭の言葉には、「また困難のときは、来るべき運命を拓く種を蒔くときでもある。だから困難のときは神の恵みと思い、神に試練を与えられたと覚悟してよいのだと思う」と続く。大プロジェクトに挑み続け、困難に遭遇した山下太郎がいうから説得力がある。


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