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「名言との対話」9月28日。吉田武彦「サービス力は世間話力」

吉田武彦(1937年9月28日‐)は日本の経営者。ビジョンメガネ社長。

中小の町工場がひしめく東大阪で、4人兄弟の次男として生まれる。父親のはメガネの下請け工場を経営する実直な職人であった。吉田は大学受験に失敗し、父の経営するシミズメガネで、製造から貿易、小売りまで幅広く学ぶ。1976年に独立し、後に小売り大手となるビジョンメガネを創業した。思い切った店舗展開と現金買取りの経営手法で急成長する。吉田はメーカーからメガネを買い付ける時、全て現金で支払い、一切返品をしなかった。そのため、従来の50~60%の値段でメガネを仕入れることができた。また、メーカーとの約束事を守り、一度も反故にしなかった。小売業界きってのアイデアマンとして数々のヒット商品を世に送り出し、2002年には自宅のパソコンでメガネが買える「どこでもメガネ」システムを開発するなどメガネ業界の革命児である。

ギリギリまで吉田の独立に反対した父親は、1984年に亡くなるまで保証人の判を押し続けた。その後、ビジョンメガネを立派に育て上げた吉田はシミズメガネの保証人となる。「今度は自分が死ぬまで判を押すつもり」と語っている。

「毎日、いろいろなお客さんに応対しなければならない小売りの仕事は、製造業とは違った辛さがある。でも、1人のお客さんで失敗しても、次のお客さんで失敗するとは限らない。いくらでも修正がきく。こんな面白い商売はない」。

メガネビジネスは健康産業であり、情報産業でもあると考えていた。創業当初から分不相応の投資をしていた。コンピューターで全ての顧客を情報管理。電話番号と生年月日を入力するだけで、お客さんがいつどんなメガネを購入されたか、奥さんはメガネをかけているのか、子供さんはどんなメガネをかけているのかが全て分かるようになっていた。

震災時。老眼鏡を無料で配り始めた。さらに、検眼するための医師を同行して被災者が避難している集会所を回り、合計1万本の老眼鏡を配布して回った。その年ビジョンメガネは前年比50%増の74億円の売上げを計上。長い間、突破できなかった50億円の壁を一気に超えた。また、利益も8億円を上げ、直面していた危機を乗り切ることができた。「老眼鏡を無料で提供したり、メガネを安くしたり、初めは私たちの方が奉仕したつもりだったが、反対にお客様に助けてもらう結果になった。『情は人の為ならず』と言いますが、この時は本当にその通りだと思いました」。

吉田はパソコンで視力を測れないかと考え、パソコンによる検眼システムを世界で初めて完成させた。吉田はこの検眼システムに、約1万種類のフレームからお気に入りを選べるシュミレーション画面を合体させて、「どこでもメガネ」ショピング・システムと命名。いつでも顧客の好きな時間に自分のペースでメガネを買えるシステムを作り上げた。構想に5年、開発に3年の歳月を費やし、実に5億円の開発費がつぎこまれていた。

吉田は、メガネ店に入ってくるお客で、実際にメガネを購入するのは5人に1人であることを踏まえ、「メガネはメガネ店で買うもの」という常識をも根底から覆す。

65歳で退任し、新たに眼鏡会社(株)プラネット・ビジョン60を設立。新会社は事業こそ順調だったものの、連帯保証の借金をきっかけに破産へ。吉田武彦社長は「親父の教えを守っておけばよかった」と悔やんでいる。ハンコをむやみに押すなというアドバイスを忘れていたのだ。

「世間話をしたかったら、新聞はテレビ欄から読め」、「サービス力は世間話力」だ、という。新聞はテレビ番組欄から読む。次はスポーツ欄。世間話するだけだったら20分読む。将来いい生活をしたかったら2時間読む。週刊誌は電車の中吊り広告を見て、題だけを覚える。それはなぜか。「新聞を読んでおかないと世間話ができないので、ついお客様のプライバシーに入ってしまう」からだ。

モノづくりの町が生んだメガネ販売の革命児、メガネ業界きってのアイデアマン、早い段階でのコンピュータの導入、情報入手の方法の吟味、仕事で会った人に送る礼状はもちろん、入社試験でビジョンメガネを訪れた学生にも自らの気持ちを手紙2枚にしたためるという、ファンづくりの方法、、、。吉田武夫は情報感度の高い経営者だった。

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