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「名言との対話」4月28日。中里介山「人間が苦労しなければならないこと、苦労した人間に光のあるというのは、つまりこの慢心の灰汁が抜けているからである。苦労なんていうものは人生にないほうがよいのかも知れないが、それをしないと人間が増長して浅薄になる。苦労も人生の一つの必要である」

中里 介山(なかざと かいざん、男性、1885年明治18年)4月4日 - 1944年昭和19年)4月28日)は、日本小説家

西多摩郡羽村に生まれる。小学校高等科を出たあとは、独学で学んでいく。電話交換手、小学校教師を経て、キリスト教から社会主義に関心を向けて平民社に参加。その後「都新聞」で新聞小説に健筆をふるう。経典のほとんどを読破した上で、生死について「空」の観点から説いた『大般若経』を傍らに、虚無的な剣士・机龍之介が主人公の『大菩薩峠』を執筆していく。

ある経典の見返し裏には「一介の愚人」という赤字の書き込みがある。日本の近代文学の主流をなす文壇文学とはまったく別種の文学世界を追求した。生涯妻帯せず、性狷介にして容易に他人と妥協することなく、自己の信念に忠実に生き、第二次世界大戦中は日本文学報国会への入会勧誘も拒絶している。60歳で永眠。

2009年に羽村市郷土博物館の常設展「中里介山の世界」をみた。机龍之介を主人公とした『大菩薩峠』は世界有数の長編小説であり、41巻の未完の大作だ。「私は人が斬りたいから生きているのだ」は机龍之介の言葉があった。

私は2021年5月に日本近代文学館の「中里介山大菩薩峠』--明滅するユートピア」展をみた。コロナ禍でほとんどの博物館、美術館が休館している中で、珍しく開いていた。

開山のライフワークは、都新聞、大阪毎日新聞東京日日新聞、隣人之友、国民新聞、読売新聞などで連載し、最後は書き下ろしとなっていく。「世界一の長編小説」を目指し、28歳から56歳まで、1913年から1941年まで28年かけて書いた『大菩薩峠』は、結局は未完に終わった。

大衆小説ともいわれたが、介山自身はそうではないとし、「大乗小説」だと反論している。大乗仏教の思想を体した小説という意味である。前半は盲目の剣士で「音無の構え」の机龍之介を中心とした死の匂いの立ち込める部分で、後半はユートピアの建設と崩壊の繰り返しが展開されている。

介山の年譜をみて驚くのは、37歳から草庵や学園などを次々とつくっていることだ。妙音草庵、隣人学園、黒地蔵文庫、隣人道場、八雲谷草庵、そして1930年に羽村大菩薩峠記念館を建て、西隣村塾を開き農業と教育に従事する共同体をつくろうとする。青年が読むべき本として「論語」と「聖書」をすすめている。その後も日曜学校も開設している。51歳、衆議院議員選挙の立候補し落選、54歳アメリカ旅行。『大菩薩峠』の最終巻の完成は56歳である。

泉鏡花谷崎潤一郎をはじめ、宮沢賢治島尾敏雄、堀田善ねい、多田道太郎鹿野政直安岡章太郎夢枕獏鈴木敏夫らが高く評価し、1920年半ばにベストセラーになる。

大菩薩峠』に関与した画家も多い。石井鶴三が代表だが、小川芋銭坂本繁二郎石井柏亭山本鼎、伊藤深水、岸田劉生などが関わっている。演劇・映画でも澤田正二郎など多く上演されている。日本近代文学館には中里介山文庫があり、10371点の資料が収蔵されている。

「峠は人生そのものの表徴である。過去世と未来世との中間の一つの道標だ。菩薩が遊化にくるところ。外道が迷宮を作る処」。大菩薩峠はそういう意味を持っているのだ。中里介山は「大乗小説」と位置付けた『大菩薩峠』だけを生涯書き続けた。

帰ってから、ずっといつか読まねばならないと思いながら、20冊というあまりの大部の『大菩薩峠』が鎮座している書斎の書棚から、負債のような気持ちで本を手にした。 各巻の巻末にある「大菩薩峠と私」と名付けるのがふさわしい文章が並んでおり、それぞれが語る大菩薩峠が面白い。

秋山駿馬「三度目の『大菩薩峠』。松本健一「『大菩薩峠』の記憶の意味」。尾崎秀樹「介山の平等観」。折原脩「ゼロとしての机龍之介」。横尾忠則「『大菩薩峠』装幀の由来」。志茂田景樹「峠の剣法」。西尾忠久「机龍之介と尺八」、、、。

人間は増長して浅はかになるのを防ぐためには苦労をして慢心の灰汁抜きをすることが必要だと中里介山は言っている。「慢心の灰汁抜き」とはうまいことを言ったものだ。いずれはこの41巻の未完の一大巨編を読まねばならない。

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