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11月24日。原田治「終始一貫してぼくが考えた『可愛い』の表現方法は明るく、屈託が無く、健康的な表情であること。そこに5%ほどの淋しさや切なさを隠し味のように加味するというものでした」

「名言との対話」11月24日。
原田 治(はらだ おさむ、1946年4月27日- 2016年11月24日)は日本のイラストレーター。

2006年に刊行した『ぼくの美術帖』を読んだ。古今東西の美術の本物を見るために、国内外の美術館、博物館、ギャラリー、遺跡、寺院、アトリエ、窯元、骨董屋、古書店などを探検するのが趣味だったことがわかる。美術をめぐる遍歴の旅である。イラストレーターは美術家ではない、という原田はその旅でで感じたことを書いた。私が美術展などで鑑賞した木村荘八、鏑木清方、鈴木信太郎、俵屋宗達、岸田劉生などが、俎上にのぼっている。

この中で紹介されている川端実は、原田の師匠の抽象画家である。原田は7歳から絵を習う。18歳の時、画家になろうと川端に相談するが、「一生働かず稼がずに、絵だけを描いていけるのなら良し、ダメなら絵描きになるな」と言われ、画家の道をあきらめ、多摩美大のデザイン科に進学する。美術学校を卒業すると川端先生の住むニューヨークの近くにアパートを借りて指導を受ける。「コスモポリタンである川端実が、ニューヨークの地で次第に東洋の、それも日本民族古来の美意識に近づいてゆくの見るのは感動的なことでした」とある。1975年には、神奈川県立近代美術館で開催された川端の回顧展が催されている。「日本を離れ、日本の画壇からもあえて遠ざかり、それでいて大きな曲線を描いて民族的な日本の美意識に回帰してゆく」。師匠は、「日本への回帰」を果たしたのである。

さて、原田はどうなったか。この本を書くと、本人の心に急激な変化が起こったのである。「若い頃に一度はあきらめていた画家への志望、純粋絵画をこの手で再び描きたいという強い欲求が頭をもたげはじめました」。仕事と都会から離れて完全な孤独の時間を確保するために、太平洋上に浮かぶ島に真白な箱型の「アトリエ」をつくる。この島はどこか調べたが、秘密の壁が高くてなかなかわからない。

原田は幸運にも恵まれ、イラストレーターになり、多忙をきわめる。そして少年時代の画家の夢は60歳になってよやく実現する。2006年の還暦後は1年の半分をこのアトリエで抽象画を描くことに費やした。それから亡くなるまでの10年間、2005年元旦から始めたブログ「原田ノート」を亡くなる5日前まで833回書いた。

2019年07月15日に世田谷文学館で『原田治展「かわいい」の発見』をみた。若い女性が多く、キャラクターグッズも売れていた。以下は、そこで見つけた言葉。「イラストレーションは「大事なのはテーマや内容にそっていること」「職人的な姿勢」「装幀とは思考を包む単なるパッケージに過ぎない」

「終始一貫してぼくが考えた『可愛い』の表現方法は明るく、屈託が無く、健康的な表情であること。そこに5%ほどの淋しさや切なさを隠し味のように加味するというものでした」と、世界にも広まっている「可愛い」について触れている。「イラストレーションが愛されるためには、どこか普遍的な要素、だれもがわかり、共有することができうる感情を主体とすることです。そういう要素のひとつであると思われる『かわいらしさ』を、ぼくは、この商品デザインの仕事の中で発見したような気がします」。イラストレーターとして実績をあげた原田治は抽象画家へ、原田治は最後の10年間は抽象画家になった。少年時代に夢みた自分への回帰を果たしたのだ。

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