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「名言との対話」11月16日。山口良忠「自分はどんなに苦しくとも、ヤミ買いはしない。ヤミと闘って餓死するのだ」

山口 良忠(やまぐち よしただ、1913年(大正2年)11月16日 - 1947年(昭和22年)10月11日)は、日本の裁判官。

佐賀県白石市出身。佐賀高校、京都帝国大学法学部卒。横浜地裁予備判事、甲府地裁判事を 経て、1933年6月東京地裁判事となる。

太平洋戦争の終戦後の食糧難の時代に、闇市で買うヤミ米を拒否して食糧管理法に沿った配給食糧のみを食べ続け、最後は郷里で1947年秋に33歳で餓死した。栄養失調に伴う肺浸潤(初期の肺結核)であった。

当時の食糧統制法下、配給だけで汁をすする生活をしながら、ヤミ買いで捕えられた人たちを裁き続けた上でのことである。

食糧管理法を遵守して餓死した者として、東京高校ドイツ語教授亀尾英四郎などがいるが、法律違反を裁く裁判官の身分であったから、世間は賛否がわかれ沸騰した。

当時の首相、片山哲夫人は、夫妻の工夫が足りないと批判し、佐々木惣一は普通でない、とし、長谷川如是閑は、少し病的だとしている。

一方、1947年11月6日、米国のワシントン・ポストとニューヨーク・タイムズは山口良忠の死を紹介する記事を載せ、彼を「a man of high principles」(高潔な男)と最大級の敬意をこめて讃えた。

山形道文『われ判事の職にあり 山口良忠』(肥前佐賀文庫。出門堂)を読んだ。

当時のマスコミでの扱いが載っている。岐阜タイムス「ソクラテスも苦笑」。日本海新聞(鳥取)「この人を見よ」。島根新聞「馬鹿正直で少し変質者」。中国新聞「判検事の生活不安」。京都新聞「真似る者のないように」。北海道新聞「フェアプレイでありたい」。河北新報「判事の死と政治」。中日新聞「たけのこ生活も底を衝く」。南日本新聞「首相夫人に抗議」。徳島民報「出よ第二の山口判事」、、。

日本文化会議による、24年後の1971年の世論調査では、「大変立派」15%、「すこしゆうずうがきかなすぎる」67%、「バカげている」16%、「無回答」2%であり、同情する人は少なくなっている。

山口判事と同級の佐賀高卒の半数の20名が京都帝大に入学している。そのうち法学部13名、そして東京帝大法は2名、東北帝大法と九州帝大法は各1名であった。法学部万能時代の世相を反映している。弥栄義塾を創立した父・山口良吾が京都遊学に際して贈った「冷静如水 熱烈如火 至誠通神 公私分明 奉答皇恩」。この書付を持って京大で勉学に励んだのだ。父は「俺が良忠を殺したのだ」と後に語った。

山口は関係した人々の目にどう映ったか。姿勢が正しかった。背筋がぴんと伸ばした姿勢。屏風みたい。聖人。古武士然たる葉隠れ男子。達節の人。昭和のソクラテス。、、。心の姿勢がそのまま身体の姿勢となった人であった。

山口判事が常々、矩子夫人に語っていた言葉が収録されている。

「名誉とか地位はいらぬ、ただ立派な裁判官になりたい」。「自分が一日休めば、それだけ審理が遅れ、苦しむものがある」。「経済犯をさばくのに闇はできない。闇にかかわっている曇りが少しでも自分にあったならば、自信が持てない」。

結婚生活7年、30歳に届かないうちに寡婦となった矩子夫人には、子ども二人が残された。夫人は独身のまま過ごし、趣味となった絵画では個展を開くまでになり、また調停委員20年の功績で藍綬褒章を受章している。そのとき200名以上を代表として天皇陛下にお礼を言上する栄に浴している。

亡くなった時、枕元には「食糧統制法は悪法だが、ソクラテスが悪法に殉じた態度には敬服する。自分はどんなに苦しくとも、ヤミ買いはしない。ヤミと闘って餓死するのだ」という意味の遺書が残されていた。

悪法も法なりとして餓死した裁判官のことは、子ども時代に何度か父母から聞いた記憶がある。今回、アメリカ人が尊敬する「プリンシプルの人」の心境と行動を詳しく書いた本を読んで、その姿に感動を覚えた。

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