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6月20日。 早坂茂三 「世間に媚びを売らず、背伸びせず、自分を深く耕して一芸を身につけ、淡々とわが道を進む」

早坂 茂三(はやさか しげぞう、1930年6月25日 - 2004年6月20日)は、日本の政治評論家。

早稲田大学政経学部卒。東京タイムズの記者を経て、取材で知り合った大蔵大臣田中角栄の政務秘書となり、早坂は33歳から23年間疾走する。「オレは十年後に天下を盗る。お互い一生は1回だ。、、どうだ。天下を盗ろうじゃないか」が大蔵大臣だった田中角栄の口説き文句だった。

12歳年下の早坂は、田中角栄という傑物と日本の政治のど真ん中で一緒に戦ってきた。その体験から生まれた深い人間観察眼は、角栄の死後もメディアを通じて角栄の実像の残像を示してくれた。不世出の英雄・田中角栄の語り部であった。角栄は人を惹きつけてやまない磁力を持ち、早坂は人に惚れ続ける熱いエネルギーを持っていた。

角栄はゴルフでは一日最低2ラウンドまわる。4ラウンドの記録もある。角栄が歩く速さは百メートル20秒!という猛スピードだった。私もゴルファーの一人だから、その体力が尋常ならざるレベルだとわかる。

以下、角栄語録。「(役人)は法匪だ。、、だから俺が鳥になって、空から道を示してやるのさ」「ウソをつくな。すぐばれる。気の利いたことを言うな。後が続かない。他人の悪口を言うな。嫌われる」。

自民党幹事長時代に母・フメは「おら家のアニは東京で何か悪いことをしているんじゃござんせんか」と語り、英国人ジャーナリストを感動させている。そういえば、私の叔父の一人が東京で活躍していたとき、その母親(隠居のおばさんと呼んでいた)は私に「週刊誌に出るようなことはするなよ、と伝えてくれ」といつも言っていた。洋の東西を問わず、母親は常に心配性なのだ。

写真屋、カメラマン、山本君、山ちゃんと、だんだん呼び方が昇格していった山本皓一が撮った写真集『田中角栄全記録』の一枚が角栄の「遺影」となっていて、「カメラマンの本懐だ」と山本は言ったそうだ。遺影に使われたのはカメラマン冥利に尽きることだろう。よく知られている車椅子の角栄の写真を空から偶然に撮ったのも山本だ。この人とは私は日航時代に一緒に旅をしたことがある。

以下、早坂語録。「危機に直面したとき、トップがどんな決断をするか、見事にはらを据えられるか、それが組織の運命を決定する」。「自らを信じ、他人に頼らず、甘ったれず、痛手に耐えてやり過ごし、目的の実現を計る情熱と意志の持続である。そして実行だ」。

早坂の68歳のときの著書『男たちの履歴書』は、角栄自身と彼を巡る男たちの物語であるが、同時に早坂茂三の履歴書になっている。角栄の刎頸の友、入内島金一と細井宗一を始め、梅棹忠夫も登場している。早坂の勧めるラ・ロシュフコー『箴言集』角川文庫)も読むことにしよう。

早坂茂三の人生の軌跡を眺めると、「背伸びせず、自分を深く耕して一芸を身につけ」ることに邁進した人だったと思う。それは、自分をよく知り、わきまえて、自分をよく知る人とともに歩んだ早坂という男の人生観と処世術である。深い共感を覚える。

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