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「名言との対話」11月2日。平田篤胤「上見れば 及ばぬことの 多かれど 笠脱ぎてみよ 及ぶ限りを」

平田 篤胤(ひらた あつたね、1776年10月6日(安永5年8月24日)-1843年11月2日(天保14年9月11日))は、江戸時代後期の国学者神道家思想家医者

復古神道古道学)の大成者であり、荷田春満賀茂真淵本居宣長とともに国学四大人(うし)の中の一人として位置付けられている。

秋田市出身。故郷にいた20歳までは「己は何ちふ因縁の生れならむ」と述懐するほど、捨て子同然の不幸な日々であったらしい。江戸では、大八車を引き、飯炊き、三助、火消しなどしながら学んだ人である。

1803年、本居宣長の没後2年たったときに、宣長の本を読み、国学に目覚める。夢の中で入門を許されたとし、「宣長没後の門人」を自称している。

篤胤には一つの疑問があった。古の教えを書いた書籍の間で内容に差があるのはなぜなのか。宣長の『古事記伝』の説に従えばよいというわけにはいかないと考えたのである。

本居宣長は、人は死ぬと汚い黄泉の世界へ行く、だから、人が死ぬことは実に悲しいことであるとした。一方、平田篤胤は、人は生きている間は、天皇(すめらみこと)が主宰する顕界(目に見える世界)の民となり、死後は大国主命が主宰する幽界(目には見えない世界)の神となる。だから、死は恐れる必要は無いと考えた。顕界からは幽界は見えない。幽界から顕界は見えている。この2つの世界でバランスが取れているとした。

良い志を持った人の体は神々の国である幽冥界へ行く。死者の魂は、現世のあらゆる場所に偏在している。祭祀を通じて生者と交流し、永遠に近親者を守っていく。現世は仮の世界であり、死後の世界こそ本当の世界である。こういう主張であった。

天皇と将軍との関係。天皇が将軍に政治を委任しているという論理であった。日本こそ「中つ国」「うまし国」である。天皇は万国の大君である。これが尊王攘夷運動に大きな影響を与えることとなった。

中国やインドの経典類の研究も行っている。ある意味で、国学の概念を超えた広い視野の研究者であった。ロシア語、そして言語や文字の起源も研究対象であった。キリスト教歴史観を意識し、儒教や仏教を完全に排除した。そして復古神道神学を樹立したのである。

仏教、儒教道教キリスト教、西洋医学ラテン語、暦学、易学、軍学などに万般に精通していたが、宣長のように異文化排除の態度をとらなかった。宣長の門人たちは、宣長を冒涜する者として、山師として非難した人もいるなど、篤胤の評価をめぐって門人は二派に分かれている。

1818年からはライフワークとなる『古史伝』の執筆にとりかかったが、未完に終わっている。しかし生涯で100冊に及ぶ膨大な著作がある。

1841年には西洋のグレゴリー暦のもとづき幕府の暦制を批判し、江戸追放を命じられ秋田に戻っている。辞世の句は「思うこと一つも神につとめ終えず今日やまかるかあたらこの世を」であり、最後は失意にうちに没している。しかし、 篤胤の学説は幕末の尊皇攘夷の支柱となり、明治維新の原動力になった。

平田神学の世界観の影響は、庶民の生き方や祖先との向き合い方にも深い影響を与えていることがわかった。

「学問は本末を知るが大事でござる」「なせば成る、なさねば成らぬ何ごとも、ならぬは人のなさぬなりけり」などの名言もあるが、冒頭の篤胤の言葉「上見れば 及ばぬことの 多かれど 笠脱ぎてみよ 及ぶ限りを」を採りたい。

自分の属す組織や社会では、上を眺めれば太刀打ちできない優れた人が山ほどいることがわかる。しかし、現在の自分を制約している笠を脱いで見渡す限り自由に眺めてみる。そうすれば世界は広く活躍できる場は無限であることがわかる。笠とは自ら設定した限界であり、経験からくる偏見であり、狭い内部を意味している。

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