「名言との対話」6月3日。佐藤紅緑「ナポレオンの臨終の一言は、「進軍」だよ。いいじゃないか、進軍! 実にいい!」
佐藤 紅緑(さとう こうろく、1874年〈明治7年〉7月6日 - 1949年〈昭和24年〉6月3日)は、日本の劇作家・小説家・俳人。
青森県弘前出身。中学中退後上京し、遠縁の陸羯南 の書生を経て、『日本新聞社』の記者となった。以後、地元青森の東奥日報、最初の妻ハルが一力社長の姉だったことから仙台の河北新報の主筆、そして大隈重信の報知新聞などで活躍する。
俳句の革新を目指す正岡子規の門に入り『俳句小史』 ほかの俳論書を刊行。1905年、「俳句研究会」もおこしている。
1906年発表の小説『行火 』、戯曲『侠艶録』により自然主義の新人として注目される。次第に『虎公』 、『麗人』 に代表される新聞小説を多く書き、大衆小説の人気作家となった。本名は洽六 (こうろく)であるが、その音に漢字をあてた紅緑をペンネームとした。
『少年倶楽部』に「ああ玉杯に花うけて」を連載し、低迷していたこの雑誌を30万部から45万部にのびたことに貢献した。紅緑はこの爆発的成功により少年少女小説に新生面を開いた。作風は正義感を貫きながら社会の荒波を乗切るというタッチであり、社会小説の先駆者ともいわれる。
佐藤紅緑は、詩人サトウ・ハチロー、小説家佐藤愛子の父である。その佐藤愛子が書いた『血脈』を読んだことがある。今回、『花はくれない 小説 佐藤紅緑』(講談社文庫)を読んでみた。
愛子によれば「小説の中で質実剛健や貧乏を礼讃しながら、贅沢は嫌いでなかった。少年読者に親孝行を説いたが父は親孝行ではなかった。人にお世辞を使うのがうまく、またすぐに人のお世辞に乗った」。愛子はその矛盾は比類のない単純さと正直さのためだと愛情をもって理解している。
夏目漱石は「はじめて小説を書いてあれだけ出来れば大成功の方だと思う」と感心している。
少年小説で佐藤紅緑は「少年に勇気、忍耐、友情の尊さを教えようとした。貧乏は恥ではないこと、正直で勤勉な鈍才は鋭才に劣らぬこと、貧しくとも世の中の悪と戦うことはブルジョアの安穏な生活よりも優る」ことを教えたのである。講談社の社長野間清治は「佐藤紅緑は作家にあらず。国士である」とも語っている。
その息子たちは、彼の主張とは違い放蕩の限りを尽くしたが、神武以来の不良少年といわれた長男のサトーハチローが後に詩人として有名になると、「サトーハチローの父」となって喜んでいる。
愛子は紅緑と2番目の妻である女優・三笠万里子の間にできた子供で、ハチローとは異母兄弟となる。七女でハチローとは20歳ほど年が違う。この佐藤家は変人が多く出ており、愛子の『血脈』に詳しい。「まともに育たないのは佐藤家の家系らしい」と書いている。ハチローの述懐によると、紅緑も「あっぱれなるおやじ」だったらしい。小学校落第の時に「そうだろう、そうだろう、当たり前の話だ。わしはお前がもしも進級したら学校へ文句をいいに行こうと思ったんだ」「まァゆっくりやれ、それより方法はない」と言ったとのことだ。
佐藤愛子が「沸騰している鍋のような生活」と表現する佐藤家の中心にあった佐藤紅緑は、ナポレオンが臨終のときにもらした「進軍!」に感激している。この人も、現状に甘んじることなく常に進軍し、前へ前へと進んでいたから、多くの人々や家族を巻き込む波乱万丈の生涯となったのだろう。