「名言との対話」9月19日。小畑勇二郎「亨けし命をうべないて

小畑 勇二郎(おばた ゆうじろう、明治39年(1906年)9月19日 - 昭和57年(1982年)10月5日)は日本の政治家。

秋田県大館市出身。旧制秋田中学を卒業し、代用教員、故郷の役場の書記をつとめる。1939年、秋田県庁に入庁し、民生部長、総務部長。1951年、秋田市助役。1955年、秋田県知事。累積赤字の解消、八郎潟干拓、秋田経済大学(現・ノースアジア大学)の開学、老人医療の無償化など数々の業績をあげ、6期24年間知事をつとめた。

「人皆に美しき種子あり」「人よりもほんの少し多くの苦労 人よりもほんの少し多くの努力」「笑顔にまさる化粧なし」「昨日は夢 今日は可能性 明日は現実」「人見るもよし 人見ざるもよし 我は咲くなり」「君にほれ 仕事にほれて 土地にほれ」「私は鬼になる」、、、、。

在任24年を「うぶすなの あめつち仰ぎ ひたぶるに 生きし日々 ありがときかな」とうたった。議会での最後の挨拶では「もろともに 尽くし尽くして まもとなん 秋田のあがたの つづくかぎりは」との歌を披露した。

2017年に大館を訪問し、田代の小畑勇二郎記念館で、この人の事績を追った。

秋田県知事を6期、24年つとめた小畑勇二郎を描いた「小畑勇二郎」小伝では、「信念と実行の人」であった小畑の人柄を次のように述べている。

名知事。人事の小幡。果断の人。無類の読書家。一流志向。、、、。

また、小畑の職場での垂訓や心構えも次のように紹介されている。

・今やらずして何日やる、俺がやらずして誰がやる(垂訓)

・おのれの立つところを深く掘れ、そきに必ず泉あらん

・何人も嫌な仕事を、何人が見ても正当に正しくやってのける私を見よ。

・私は鬼になる(機構改革と人員整理)

・善政は善教に及かず(孟子。生涯教育)

どんな仕事でも全身全霊でぶち当たる精神で、村役場の税金係を振り出しに、県知事までの仕事をやり遂げた人だ。秋田県知事退任後の1979年の73歳では、地方自治功労で勲一等瑞宝章を授与されている。瑞宝章とは積年の功労による。旭日は勲績のある人に贈る。勲一等瑞宝章は、現在では瑞宝大綬賞と改められている。

小畑の場合も、母シカが偉かったようだ。シカという名前は野口英世の母と同じ名前だ。「たよりにならない父だけど」と歌になっている野口と同じように、父・勇吉は俗にいう「山師」で、数々の事業に失敗して早世している。野口、小畑の場合も母・シカが偉かったのだ。

息子の小畑伸一の小畑勇二郎伝「亨けし命をうべないて」(サンケイ新聞社)は、人間・小畑勇二郎の私的な実像を描いていて飽きさせない。伸一は新聞記者。

息子の観察によれば、ここぞという時にには、必ず誰か重要な人が現れて助けている。努力の積み上げもあるが、何か、非常に天運に恵まれている。強い星の下に生まれている。

勇二郎は読書家で、蔵書には必要な部分にはアンダーラインを引いていた。また、名小畑は名文家であった。「続・亨けし命をうべないて 県政覚え書き」では、自ら筆をとった「忘れ得ぬ人々」というタイトルで「水交通信」に連載した文章が載っている。亡くなった方の追想であるが、それぞれとの出会いやふれあいが、心のこもった達意の文章で語られている。重宗雄三、吉田季吉、蓮池公咲、、、など30人の人生とふれあいがわかる。

「人間の運命というものは判らんもんだ。ワシは、あの時、クビになったおかげで知事になったようなもんだ」と小学校の代用教員をクビになったときのことを勇二郎は述懐している。筆者は最後に一口にいって「一所懸命に生きている人」だと述べている。

勇二郎が色紙によく書いた「亨けし命をうべないて」は、すべてを天から授かった命運と思い、喜んで受諾し、全うすることにつとめるという意味である。うべなうとは、諾べなうである。積極的に喜んで受けるという気持ちを表している。

小畑勇二郎は、宿命を使命にかえて、一所懸命に生き切った人であると思う。その精神は「享けし命をうべないて」である。



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