4月28日。粟津潔「与えられたテーマに自分なりの『見い出し方』を持ち込むことができたら、デザインはデザインを超えていく」

粟津 潔(あわづ きよし、1929年2月19日 - 2009年4月28日)は日本のグラフィックデザイナー。

1955年、ポスター作品『海を返せ』で『日本宣伝美術会賞』受賞。戦後日本のグラフィックデザインを牽引し、さらに、デザイン、印刷技術によるイメージの複製と量産自体を表現として拡張していった。1960年、建築運動「メタボリズム」に参加、1977年、『サンパウロビエンナーレ』に『グラフィズム三部作』を出品。1980年代以降は、象形文字やアメリカ先住民の文字調査を実施。イメージ、伝えること、ひいては、生きとし生けるものの総体のなかで人間の存在を問い続けた。その表現活動の先見性と総合性は、現在も大きな影響を与えている。

粟津の受けた賞をあげてみよう。1955年日本宣伝美術会展、日宣美賞。1958年世界フィルムポスターコンペフランス最優秀賞。1966年毎日産業デザイン賞。1969年映画近松門左衛門の「心中天網島」の美術で伊藤喜朔賞。1970年ワルシャワ・国際ポスター・ビエンナーレ展銀賞及び特別賞。1975年「世界で最も美しい本の展覧会」グランプリ。1980年映画「夜叉ヶ池」日本映画アカデミー最優秀美術賞。1990年紫綬褒章受章など実に多く、かつ多彩である。

粟津潔の肩書きはグラフィックデザイナーだが、その表現の領域は、絵画やポスターから、マンガ、映画美術、さらにパフォーマンスや空間設計まで、一人の人間がここまでできるのかと思うほど多岐にわたり壮観だ。津山文化センター中庭、「サンパウロビエンナーレ」「大阪万博」「渋谷・天井桟敷館」、「メタボリズム」、出雲大社、高速道路の標識フォント、映画『心中天網島』の美術監督、日本デザイン会議のポスター、世界デザイン博のポスター、、、。「私はすべての表現分野の境界を取り除いて、階級、分類、格差とかも全部取り除いてしまいたい」。粟津は越境する人だった。息子の粟津ケンは「巻き込み / 巻き込まれ上手」だったと述懐している。好奇心旺盛な稀代のコミュニケーターだったのであろう。

粟津潔は法政大学専門部中退で、絵画・デザイン技法は独学で学んでいるのには驚く。「知識がないところからやる辛さと、それで失敗しまくりながらも世界を広げて」いったのである。著書『造型思考ノート』では、フリーランスでどこにも所属せずにやっていく気持ちを「とにかく不安」と認めつつ、でも依頼仕事も相手のご機嫌伺いではなく、むしろ自分が今やりたい作品にしてしまおう」としていたことと述べている。アーチスト(芸術家)ではなくアルチザン(職人)であった。それをデザイナー、現代ではグラフィックデザイナーと呼ぶのである。

自分の舞台を創るところから始める起業家は、いわばアーチストである。相手が用意したテーマを予算や時間の制約の中で解答を出すビジネスマンは、いわばデザイナーである。設計者である。デザインの過程で自分という個性を表現できるようになったら、デザインはデザインを超えていく。そして分野を自在に越境していけるようになる。粟津潔のようなデザイナーを志したいものである。

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