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「名言との対話」 」7月8日。荒垣秀雄「対岸の火災、近火、至近弾」

荒垣 秀雄(あらがき ひでお、1903年7月19日-1989年7月8日)は、昭和期の新聞記者・コラムニスト。

早稲田大学政治経済学部を卒業し、東京朝日新聞に入社。満州事変の従軍記者として活躍し、1936年のジョージ6世戴冠式の特派員。1939年、東京本社社会部長。その後、リオデジャネイロ支局長やマニラ総局長を歴任する。

戦後1945年に論説委員となり、「天声人語」を17年半にわたって担当した。題材に花鳥風月の自然観を取入れた名コラムニストであった。1956年には「天声人語」の執筆により第4回菊池寛賞を受賞。退社後もコラムニスト、自然保護活動家として活躍する。日本自然保護協会会長などを務めた。

私の受験時代には「天声人語」は大学入試の定番だった。その権威は荒垣時代に基礎がつくられたのだ。この人の著書はまとまって読んだことはなかった。このたび『人・旅・自然』というエッセイ集を読んでみた。83歳の著書である。荒垣は86歳で死去するから、エッセイストとしては生涯現役だったことになる。

「人」の章。朝日新聞にいた人々の話も面白い。「漱石・玄耳・啄木・柳田国男・緒方竹虎の月給」という文章では、それぞれの月給の額がわかる。「柳田国男ーー論説委員として」では、今まで知らなかった柳田の仕事ぶりを知った。柳田は19年間の官僚生活をやめて46歳で朝日に入社し、論説委員として活躍した。題の付け方がうまくジャーナリスティックで、書き出しが上手かった。56歳で退社し、ライフワークの民俗学の大成に邁進したのだ。

「旅」の章。「九州路の旅」に耶馬渓とその表玄関として中津が出てくる。福沢諭吉旧居とヤバケイクラブでの豊後牛の巨大ビフテキを食べて3分の1を残したとある。それから、禅海和尚の「青の洞門」、日田の広瀬淡窓の咸宜園をまわっている。芭蕉の160日、2400キロの旅の「奥の細道」には、食べ物のことと金銭のことは出てこない、という。出雲大社はニ拝・四拍手・二拝。宇佐神宮もたしか同じだ。

このエッセイ集では、「人物まんだら」「旅におもう」「人くさい自然」の後は、「私の老人観」である。

平均寿命は、明治22年(1899年)、男42.8歳、女44.3歳。昭和22年(1947年)、50歳の壁を超えた。1952年、60歳代となり、1971年、70歳突破。1986年の執筆の時点で男74.2歳、女79.78歳で、世界一の長寿になった。その当時は「人生80年時代」とマスコミがはやした時代である。それから34年経って今は「人生100年時代」がメディアのテーマになっている。老後の幸せは3K。カネ(経済)、カラダ(健康)、ココロ(精神)。私の主張の「カネ、ヒマ、カラダ、そしてココロ」と同じ考えだ。

「あとがき」によれば、著書の刊行は、81歳1冊、82歳2冊、83歳で本書。84歳も予定があると記している。筆硯閑無しだ。読んだこと、考えたことが形をなして明確に刻みつけられるから、書くことを続ける。それが老化の防止になるという。

荒垣の観察では「元気な人が早く死に、病弱な人が高齢で生き残っている」という。一病息災なのだ。長生きの秘訣として「風邪ひかぬこと、ころばぬこと、葬式の義理を欠くこと」とよくいわれるが、とくに葬式を欠礼することをすすめている。 「対岸の火災、近火、至近弾」とは、年齢が上がるにつれて、友人、知人の葬式が多くなってくることを語った言葉である。

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