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「名言との対話」7月18日。西郷従道「過ちを改るに、自ら過ったとさえ思い付かば、それにてよしであろう。

西郷 従道(さいごう じゅうどう / つぐみち[1]、旧字体: 西鄕 從道󠄁、1843年6月1日(天保14年5月4日) - 1902年(明治35年)7月18日)は、日本の軍人、政治家。

鹿児島出身。長兄の西郷隆盛の影響で尊王攘夷運動に参加。戊辰戦争に従軍後、新政府に入る。1874年陸軍中将として台湾出兵を指揮した。西南戦争では隆盛側につかず、政府に残留している。文部卿、陸軍卿、農商務卿を歴任した。内閣制度が創設されると、第1次伊藤博文内閣の海軍大臣に就任し、日清戦争での戦功を認められ侯爵に叙位される。元帥にもなっている。海軍大臣在任は通算10年に及んだ。その間、日本海軍の整備、改革に尽力した。

西郷隆盛は、本来は 隆永(たかなが)であったが、薩摩弁でうまく伝わらず、「隆盛」と記述された。西郷は、それならそれでいいと隆盛ということになった。同じように、従道は本来は 隆道(りゅうどう)だったが、「じゅうどう」と聞き間違えらて、従道となったとのことである。豪放磊落な兄弟であったことを示すエピソードだ。

隆盛を長兄とする西郷兄弟を調べると、幕末から明治にかけて三男の従道だけが生き延びていることに驚いた。長男の隆盛は、明治10年西南戦争で死んだ。隆盛より6歳下の吉二郎は期待された人材だったが、戊辰戦争で死んでいる。20歳下の四男の小兵衛は面影や性格は隆盛に似ていたそうだが西南戦争で戦死している。

従兄で1歳下の大山巌は、陸軍に入り日露戦争でも司令官として、大砲で戦闘が始まっているときに、騒がしいのは何でごわすかと言ったという悠揚迫らぬ器で、部下が心酔したと司馬遼太郎坂の上の雲』で目にした。海軍で活躍し、海軍大将になった従道も同じタイプだった。海軍大臣時にも山本権兵衛に任せて縦横に腕を振るわせた。細かいことは部下に任せてるという日本的リーダー像そのものであった。従道は、四升の酒を飲む酒豪で、体型は達磨体型で愛嬌があった。「資性磊落、且つ機智に富み、激しい聴かぬ気の英傑だった」「私は彼を聡明な、魅力に富んだ人で、頭のさきから足の裏まで武人であると思った」との人物評がある。

冒頭の名言「過ちを改るに、自ら過ったとさえ思い付かば、それにてよし」の後には「その事をば棄て顧みず、すぐに一歩踏み出すべし。過ちを悔しく思い、取繕はんと心配するは、たとえば茶碗を割り、そのかけらを集め合せ見るも同じにて、詮なきこと也」が続く。

経歴からみると、総理大臣になってないのが不思議な感じがするが、「兄が逆賊だったから、俺がトップになったら民衆が納得しない」といって、再三の要請も断っている。そういう意味では、出処進退はきれいだったといえる。小西郷と呼ばれ、兄弟でひとり残った従道は、大西郷・隆盛の志を継ごうとしていたのであろう。

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