4月18日。来栖継「重訳が必ずしも直接訳に劣らない」

栗栖 継(くりす けい、男性、1910年7月18日 - 2009年4月18日)は、翻訳家、チェコ文学者、共産主義者、エスペランティスト、日本エスペラント学会顧問、世界エスペラント協会名誉会員、日中友好文通の会会長。

父が自殺したため母子家庭で育つ。中学時代にエスペラント語を知り、雑誌「戦旗」に掲載された「プロレタリアとエスペラント語」という論文を読み、エスペラントにより革命運動に参加できると考え、エスペラントを学習する。戦前は治安維持法により特別高等警察によって数回逮捕・投獄された。出獄した栗栖は小林多喜二『蟹工船』のエスペラント語訳に取り組み、作家の貴司山治の助けで、大量にあった伏せ字を全部復元した翻訳を完成させた。その時点では出版できなかったが、スロバキアのジャーナリストが、栗栖のエスペラント語訳からスロバキア語に翻訳し、1951年に発行された。戦前・戦後を通じて日本のプロレタリア文学などのエスペラント翻訳などを多数行った。1949年、エスペラント運動に関する功績により「小坂賞」(日本エスペラント運動に対する小坂狷二の功績を記念した賞)を受賞した。

少年期からチェコ文学に興味があり、「本物のチェコ文学者」となろうと、40歳を過ぎてから、独学でチェコ語を学習する。1995年7月、ルイジ・ミナヤ賞(世界エスペラント協会主催文芸コンクール、エッセイ部門第1位)受賞。2007年には、横浜みなとみらい21で開催された第92回世界エスペラント大会では、エスペラント語で開会式のあいさつを行った。

宮澤賢治が世界語・エスペラント語の使い手だった証拠は、宮澤賢治記念館でも見かけた。また2011年に開催された「ウメサオタダオ展」でもエスペランチスト梅棹忠夫のエスペラント語のサインの入った本が展示されていた。訪問したいくつかの人物記念館でもエスペランチストは数人いた。この世界語への関心が高い時代があったのだ。

小林多喜二の代表作『蟹工船』のスロバキア語訳の陰には、来栖継という日本人によるエスペラント訳があったことが後にわかった。「スロバキア語とよく似たチェコ語訳の『蟹工船』は、伏せ字だらけの本が底本です。重訳が必ずしも直接訳に劣らない一つの例証です」と91歳の来栖継は語っている。原作を超えるという評価のある翻訳では、森鴎外の『即興詩人』が有名だが、日本語からエスペラント語への翻訳、そのエスペラント語訳からスロバキア語への再翻訳という「重訳」が成ったわけだ。

翻訳は原本の良さがだんだん薄れるだろうと思うのだが、語学の才能に加えて、志の高い翻訳者を得れば、直接翻訳を上回る出来になることもある。来栖継の第一次翻訳が優れていて、スロバキア語への転訳もすばらしかった。小林多喜二から来栖継、そしてスロバキアのジャーナリストというように松明が引き継がれたのである。奇蹟の物語がここにある。


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