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「名言との対話」(戦後編) 7月18日。砂押邦信「お客さんに評価される自分の野球のスタイルを自分でつくること」

砂押 邦信(すなおし くにのぶ、1922年9月25日 - 2010年7月18日)は、茨城県出身の野球選手(投手)、コーチ・プロ野球監督。

立教大学監督時代に米メジャーリーグ流の指導法でミスタープロ野球・長嶋茂雄を育てた人物である。1950年に母校・立大監督に就任し、「鬼の砂押」と恐れられたスパルタ練習で、1953年春季に20年ぶりに東京六大学リーグ優勝を果たす。第2回日本選手権にも優勝した。1954年に入学した「立教の三羽ガラス」長嶋茂雄・杉浦忠・本屋敷錦吾を鍛え上げ、後の立教大学野球部黄金時代の基礎を築き上げた。

石灰を塗ったボールでの「月夜の千本ノック」などの猛練習が有名だ。一方で米国の技術書を翻訳し、高価な映写機を合宿所に持ち込みながら、フォームの研究に生かす革新的な指導も行った。長嶋には、ヤンキースのジョー・ディマジオの連続写真を見せつつ、打撃術を伝授している。後に長嶋は「厳しかったけれど、砂押さんには愛情があった。なんとか鍛えてものにしてやろうと。愛情のない厳しさはしごき、いじめだけれど、愛情のある厳しさは、しごきやいじめではないんです」と感謝している。

社会人野球の日本鉱業日立監督(1956年 - 1959年)を務め、1956年の都市対抗では第1回小野賞を受賞。 1960年からは国鉄スワローズ一軍コーチ、監督に就任した。

数々の名選手を育成したことから「選手づくりの名人」と呼ばれたが、やはり白眉は長嶋茂雄を育てたことだろう。愛弟子の長嶋には「これからの若い世代は、メジャーを見習わなくてはならない。それは個性の重視だ。プロに行っても君はどういうプレーヤーになりたいのか、お客さんに評価される自分の野球スタイルを自分でつくることだ。それがメジャーのやり方なのだ」と教えた。米国流の「個性の重視」、「お客さんに評価される自分の野球のスタイルを自分でつくること」という考え方を長島は叩き込まれた。私も含め日本中が熱狂した長島茂雄の強烈な個性と観客を喜ばせようとする独特のスタイルは砂押の作品だったのである。それが日本のプロ野球の全盛期をつくったともいえる。「千里の馬は常にあれども、伯楽は常にはあらず」。傑出した才能を育てることの功績は、なにものにも代えがたい価値がある。

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