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「名言との対話」12月1日。大塚武三郎「これで何か後世に残るもの、我々だけのものでなく、皆さまと共有できるものをつくろう」

大塚 武三郎(おおつか ぶさぶろう、1891年明治24年)12月1日 - 1970年昭和45年)9月30日)は、日本実業家

徳島県鳴門市出身。29歳で大塚製薬工業部を創立。長男の正士は5歳の時、「うちの工場ってこんなに小さいのか」と問うと、「おお、今は小さいけれどそのうちに親方の工場より大きくするぞ」と言われている。武三郎は「私の事業歴に後退という記録はない」と言っていたとおり、倒産の危機に見舞われた戦後の混乱期から、50年以上にわたり、不屈の精神で乗り切っている。

1947年、長男の正士に社長を譲り、大塚グループの総帥となった。1970年、死去。

武三郎は今でも「おやじさん」として親しまれている。そして大塚製薬は、社訓(おやじさんの書)として「品質は工場の生命にして包装も亦品質なり 買う身になりて造れ売れ」がある。

大塚正士は紀伊水道に面していた浜の白砂をタイルにして売る事業に着手する。それがうまくいかなかったときに、陶板に絵を描いて美術品に移行する。陶板に写真を焼きつけると永遠に変色なしに保存できることに気がつく。1300度で焼いた美術陶板は、2000年、そのままの姿で残るのである。この陶板制作に成功した時は創業50周年であった。武三郎は「これで何か後世に残るもの、我々だけのものでなく、皆さまと共有できるものをつくろう」と語っている。

それから25年の創業75周年の記念事業として、正士は鳴門海峡の地に西洋の名画のみの美術館をつくることにし、10年をかけて総工費400億円で1998年に大塚国際美術館を設立した。

世界25ヶ国の190余の美術館が所蔵する1000点以上の西洋名画がある。シスチーナ・ホール、フェルメールエル・グレコ、モネの睡蓮、レンブラントの夜警、ダ・ヴィンチモナリザボッティチェリヴィーナスの誕生ゴヤゴッホのひまわり、ミレーの落穂拾い、ピカソゲルニカ、、、、、、、。

すべて原寸という豪華な美術館である。信られない、恐るべき光景である。とても一日でまわることはできないから、数日かけるか、数回訪問しなければならない。

徳島に旅をしたとき、見るチャンスがあったのだが、その時は、こういったスケールの美術館とは知らなかったのは残念だった。

この美術館は、大塚製薬の創業者の大塚武三郎の育てた事業と、その遺志である後世に残る、皆で共有できるものを実現したのである。1920年の創業から1998年にこの美術館が完成し、現在は創業から100年経ったところだ。この長い物語に感銘を受けた。


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