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5月27日。山地進「教育は大切だからね」

山地 進(やまじ すすむ、1925年5月12日 - 2005年5月27日)は、総務事務次官を経て日本航空社長,会長。

東京大学工学部造船工学科を卒業、更に法学部政治学科へと進む。運輸省に入省。1981年から総理府に転じ、1984年に新設された総務事務次官に就任。1985年に辞任し日本航空常勤顧問。同年8月、日航ジャンボ機墜落事故が発生し12月に代表取締役社長に就任。1987年には完全民営化を実現させた。副会長を経て1991年6月に会長となる。1998年に相談役を経て2004年に名誉顧問。

話題となった山﨑豊子『沈まぬ太陽』では、1985年の御巣鷹山墜落事件処理のために時の中曽根首相(利根川)が1986年に鐘紡代表取締役会長の伊藤淳二(国見正之)を会長にすえ、天下り官僚の山地進( 海野昇)を社長にしたという想定になっている。

私のビジネスマン時代の30代半ば以降は、山地社長、利光社長の近くで仕事をし、辞めるときは近藤社長から激励されたことを思い出した。山地社長時代は広報課長であり、毎週のようにブリーフィングを行った。社長室での報告や決済、そして雑談と思い出は尽きない。「君たち、社長になんてなるもんじゃないよ」と言われたことがある。案件はすべて決まってからくるし、選択できるのは昼飯の「蕎麦かうどんか」だけだと、ユーモアを交えながらの説明に、部長以下、笑ったこともあった。

山地さんは、日本酒の大吟醸を日航のファーストクラスに載せるプロジェクトを実施したときの社長で、この件で何回か接触した記憶がある。シンセサイザーの富田勲先生とタッグを組んでのプロジェクトだったが、10年間搭載が続き評判もよかった。発端は山地社長だった。後日、関係者と神田和泉屋で酒宴を持った時に、お招きしたが体調が悪くお目にかかれなかった。しかし、電話でお話することができた。私には「相変わらず絵を描いているか?」「教育に頑張っているか?」「体調が戻ったらまた大吟醸を飲みたいな」という言葉をかけてもらった。

1997年の私の宮城大への転出にあたって山地会長に挨拶に伺うと、「君は個性派だったからね。会社にとっては明らかに損失だが、本人にとっては、その方がいいだろう。教育は大切だからね」と励ましていただいた。「教育は大切だ」という言葉が耳にこだましながら仕事をし続けてもう20年になる。

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