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「名言との対話」6月28日。上田閑照「光陰矢の如し。その矢は自分自身を貫いて飛んでいる」

上田 閑照(うえだ しずてる、1926年1月17日 - 2019年6月28日)は、日本の哲学者。享年93。


東京生まれ。父は高野山真言宗僧侶。1949年、京都大学文学部哲学科卒業(宗教学専攻)。高野山大学講師を経て、1963年に京大に転じ、1973年に教授。2003年日本学士院会員。2018年文化功労者

上田閑照集』岩波書店(全11巻。2001-03年)に著作のほとんどが入っている。それは以下で構成されている。西田幾多郎。経験と自覚。場所。禅‐根源的人間。禅の風景。道程「十牛図」を歩む。マイスター・エックハルト。非神秘主義 エックハルトと禅。虚空/世界。自己の現象学。宗教とは何か。

上田閑照『生きるということ 経験と自覚』(人文書院)を読んだ。

「生涯」とは何か:人の一生。人が生きる時代。生きることの質としての境涯。この3つの局面が組み合わさって浸透し合って生涯を成してくる。(一人の人生とそれを包む時代、そして生きることの質を左右する境涯、その組み合わせが」生涯であると理解しておこう)

「生命」は生物とつながっている。「生」は人間的な文化的生、生活、人生、より豊かにが生の運動。「いのち」は、死に触れることを通して触れる、宗教的なニュアンス、生き方。この3つの連関が「生きている」ということ。(生きているということは、生命、生、いのちの関連の中にある)

「経験」とは理解・対応できない事実にぶつかるという仕方で事実を知ること。実験(自分で験ためしてゆく)を重ねるという意味での経歴。自己が破られて世界が新しくなる。「体験」とは自分の世界を壊すという仕方で、痛さとともに事実がぶつかってくる。新しい世界への裂け目に身を置いて耐え通す時間が必要で、それに耐えて新しい世界がリアルに開かれてくる。深く統一されてくる。広くなる、深くなる。それまでの経験が新しく経験し直すことになる。尽十方(じんじっぽう)という無限の広さと深さへの転換、これが根本経験、純粋経験。主客未分。自己の根源。、、(外的世界の拡大は内的世界を深化させる、という私の信条のこと。しかしその先に根本・純粋経験という世界があるとのことだ)

仏教:劫。巨大な宇宙時間。天人が100年に一度、薄い絹の衣で1回擦ることを数えきれないほど繰り返し、石がなくなってしまうまでの時間が一劫。我々の住む小世界が千集まって中世界、それが千集まって一つの大世界。それが、、、続いて巨大な三千大世界。(仏教世界の「時間と空間」の考え方がわかった感じがする)

以上、なかなか完全な理解は難しいが、以上、関心のあるところを拾ってみた。この本の最後は「それでも私は、「見るべき程のことは見つ」と、まだ、言えない」で終わっている。それを書いたのは1991年、65歳であった。それから28年後に没するが、すべてをみたのであろうか。

上田閑照は「光陰矢の如し。その矢は自分自身を貫いて飛んでいる」という。「光陰矢の如し」とは、よく聞く。その後に続くのは「その矢は自分自身を貫いて飛んでいる」という言葉であった。時間が過ぎ去るのではなく、自分自身が過ぎ去っていくということなのだ。


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