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7月26日。竹島紀元「竹島学校」

竹島 紀元(たけしま としもと、1926年2月- 2015年7月26日)は日本の編集者、映画監督。

雑誌『鉄道ジャーナル』、『旅と鉄道』の編集長および両雑誌を発行する鉄道ジャーナル社の創業者。寝台特急をさす「ブルートレイン」の名付けの親でもある。

生まれて初めて眼でみたのが「汽車」であった。それが一生を決めtる。戦前は朝鮮半島で過ごす。戦後旧制五高から九州大学工学部に入学する。根っからのレールファンで、国鉄の技術関係の仕事に就きたい夢を持っていたが、戦後の混乱が影響し断念する。大学を中退し上京し、交通協力会で『交通技術』や『国鉄線』の編集に携わった。1951年創刊の『鉄道ピクトリアル』誌(電気車研究会刊)、1961年創刊の『鉄道ファン』誌(交友社刊)といった鉄道趣味誌の編集に携わる。

1965年3月、竹島氏は鉄道映画専門プロダクションとして、株式会社鉄道記録映画社を創立し、新橋にオフィスを構える。その後、「鉄道趣味誌に社会的な視点が必要」という趣旨に賛同した株式会社東亜企画が版元になり、1967年4月、41歳で「第三の鉄道趣味誌」と謳い、年4回発行の季刊誌・社会派鉄道誌『鉄道ジャーナル』を創刊した。以後月刊化にも成功し、1970年10月14日の鉄道記念日に社名を「株式会社鉄道ジャーナル社」に改称している。2006年末の84歳での勇退まで編集長として采配をふるった。

人気を博した看板企画「列車追跡」シリーズに代表されるように、人と鉄道の関わりを重視した姿勢と情感溢れる記述で多くの読者を魅了した。「雪の行路」に代表されるドキュメンタリー映画の製作にも果敢に取り組み、歴史的財産ともいえる多くの作品を完成させている。1971年には「鉄道を駆使して旅を点から線に広げる」をコンセプトとした「タビテツ」と呼ばれた季刊誌『旅と鉄道』を発刊、車輌趣味に傾倒しがちだった鉄道趣味誌に新風を吹き込んだ。『竹島紀元作品集 鉄路に魅せられて』という自伝的作品では、仕事人生を振り返り、「私はだれよりも蒸気機関車を愛しようとしたつもりである」と、最後のページに記している。

私のいた航空業界でも、『航空ジャーナル』、『航空ファン』という名前の雑誌があった。鉄道の雑誌を参考にしたのだろう。竹島は、長い職業生活を通じて、自身の属す業界だけでなく、他の業界にも大きな影響を与えた優れた仕事をしたことがわかる。

竹島については「活躍している鉄道カメラマンのほとんどの方が、何らかのかたちで同誌(鉄道ジャーナル)の、いや竹島さんの薫陶を受けてきているはずです」というような声が多くある。竹島は「竹島学校」の校長だったのだ。「〇〇学校」と称される人はどのような組織でも偉大な足跡を残した人である。彼らの特徴は、「人」を育てたところにある。彼の影響を受けて、優れた業績を積み上げていった人々は、懐かしそうに、その時代を語るのが常である。「功なり名を遂げた」、というのはこの竹島紀元のような人をいうのだろう。


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