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「名言との対話」3月29日。加藤セチ「私は明日死ぬかもしれないという日まで勉強がやめられないんですね。研究精神だけは理研が私に与えた最大のたまものと思っています」

加藤 セチ(かとう せち、明治26年(1893年)10月2日 - 平成元年(1989年)3月29日)は、日本の化学者。理学博士。

日本の女性科学者の草分けの一人。理化学研究所主任研究員。上野学園大学名誉教授。山形県東田川郡三川町名誉町民。

山形女子師範、東京女子高等師範で学び、札幌で教師になるのだが、兼務で北海道帝国大学初の女子学生として入学する。札幌農学校1期生の佐藤昌介総長に直談判し全科選科生として農学科で学ぶ。写真をみると目の大きな美人である。教授会は美人過ぎて大成しないだろうといったそうだ。この物語は「北大百年史・部局史」にも記載されている。セチは講義に対して異常な感動を覚え、学問とはこのように三次元の厚みをもち、しかも生き生きと躍動して止むことのない姿であることを感得したのである」と語っている。

1922年、財団法人理化学研究所の研究生となる。直後に長男と長女を出産している。理研は大正デモクラシーの先頭を走っていた。朝永振一郎は理研を「科学者の自由な楽園」と言った。自由に研究ができる環境があった。有機物質の分光分析等に顕著な業績をあげた。日本人3番目の女性の理学博士を京都大学から授与される。そして加藤セチは1953年に理研初の女性主任研究員となった。「カッポウ着を着た美人科学者」だった。あのSTAP細胞の小保方晴子さんもかっぽう着を着ていて話題になった。伝統だろうか。

退職した1960年から15年間、現役の物理・化学・生物の高校教師を対象とした「理科ゼミ」を無料で主催した。2018年には理研は女性研究者のための「加藤セチプログラム」を設置し、並外れた能力を持つ女性研究者に、研究室主宰者として独立して研究を推進する機会を提供している。加藤セチ、享年95。

映像で長女がセチの思い出を語っている。セチは帰宅すると祖母が用意した夕食を食べて研究する。母親と接するにはその時とお風呂だけだった。甘えることはなかったという。
「いたづらに背景を持たぬことをかこち、社会制度の不備に不満を抱き、与へられる時の来るを空しく待つべきではない。叩けば裏木戸は開く、割り込んでゆかうと努力すれば小さな机は与へられる。その与へられたことに感謝し全精神を捧げて学ぶならば次第に光つてゆくであらう」

「天才でも何でもない凡人には、どうせ、あるものしか見えないとあきらめるのは間違いである。どんな芸術でも、どんな科学でも生まれるときは、全くの偶然に霊感が現れるという場合はなく、心を不断に配り、観察を微に入り細に亘って怠らないとき、そこに霊感が降りて、発見が生まれる」

「ふかく科学に憧れてゐる心は、正しい詩の浴槽に浸つてゐるやうな和かなもので、そこには怨みもなければ憎しみもない。また飾り気もなければ、傲りたかぶる心もない。静中に動を観じ、動中に静を観じる哲学的思索に似たものを汲み得るのである。従つて、科学は新らしい天地を啓示してくれる霊魂の窓である。かうしたものを一枚づつ重ねてゆくことができるならば、女性にとつて何物にも優る美服であるといへるであらう」

「叩けば裏木戸は開く、割り込んでゆかうと努力すれば小さな机は与へられる」。加藤セチは科学は「霊感と霊魂」の所産であると考えていた。理研の女性の後輩たちを励まし、女性高校教師たちを指導した。研究精神旺盛な勉強家の女性科学者の生涯は実に尊い。


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