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「名言との対話」8月23日。黒田清隆「大隈どん、貴君の片足を失ったのは、私の片足を失ったより残念じゃ」

黒田 清隆(くろだ きよたか、旧字体: 黑田 淸隆1840年11月9日天保11年10月16日〉- 1900年明治33年〉8月23日)は、日本陸軍軍人政治家。享年59。

薩摩藩士、陸軍軍人。薩摩藩出身。薩長連合の成立に寄与。戊辰戦争では五稜郭の戦いを指揮。維新後は開拓次官、のちに長官として北海道経営にあたり、札幌農学校の設立、屯田兵制度の導入などを行う。津田梅子らのアメリカ留学も黒田の発案だった。農商務相、そして第2代総理大臣を歴任し、大日本帝国憲法の発布式典にかかわった。

2015年に竹橋の国立公文書館大日本帝国憲法の原本のコピーを見たことがある。漢字とカタカナで書かれている。「第一章 天皇。第一条 大日本帝国万世一系天皇之ヲ統治ス。」睦仁天皇黒田清隆総理の印が押してあった。

黒田は組閣にあたって「政府は超然として政党の外に立つ」という超然主義をとった。政府は議会・政党の意志に制約されず行動すべきという趣旨を述べた。このため超然内閣と呼ばれた。大日本帝国憲法は政党内閣を前提としてはいなかったことがわかる。その後枢密顧問官、枢密院議長等を歴任している。

「榎本(武揚)を殺すのなら、そんな新政府、自分は辞めて坊主になる」とは、五稜郭の戦いで降伏した榎本武揚の処分に際し、黒田が同郷の西郷隆盛に榎本の助命嘆願した際のことばである。黒田は坊主頭になった。その榎本は新政府で能力を大いに発揮している。幕末には西郷隆盛と、賊軍となって戦った庄内藩にも寛大な処置をして感銘を与えている。黒田は大きな度量の人であった。

一方、黒田には放蕩癖があり、酒乱でも有名であり、妻を殺傷したという噂がある。このとき黒田の窮地を救ったのは同郷の大久保利通であった。「此の大久保をお信じ下さるなら、黒田をもお信じ下されたい」と一言を発し、その場が収まった。こういうエピソードもある。

外国人判事を導入するという条約改正案を出した大隈重信外務大臣に対し、玄洋社の来島恒喜が爆弾を投げ、大隈は片足を切断した。「大隈どん、、」は、ある時は敵であり、ある時は味方であった大隈を黒田総理が見舞った時に大隈外相ににかけた言葉である。この事件によって、条約改正はできなくなった。

黒田清隆は、豪快でありながら、深謀があり、愚直で頑固であり、その硬骨がすぐれた調整能力につながるという不思議な魅力を持った大人物であった。

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