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「名言との対話」 12月22日。川谷拓三「きっとある。おもしろいとこ、楽しいとこってのは、どんな仕事にでも」

川谷 拓三(かわたに たくぞう、1941年7月21日 - 1995年12月22日)は、日本の俳優である。

旧満州生まれ。敗戦とともに高知県安芸市へ引き揚げる。1960年東映京都撮影所に入社。通行人や殺され役などの大部屋生活を15年という長きにわたって経験する。失敗したら明日はないという過酷な時代だ。悔いのないようにやろう、そういう心構えで、ようやく映画「仁義なき戦い」シリーズで見い出される。1974年「史上最大のヒモ・濡れた砂丘」で映画初主演。1975年大部屋仲間の室田日出男、志賀勝らと脇役集団・ピラニア軍団を結成。同年テレビドラマ「前略おふくろ様」で脚光を浴びる。1976年CM「日清きつねどん兵衛」が評判となる。1978年NHK大河ドラマ「黄金の日々」に出演。ほかの代表作に「鉄砲玉の美学」「愛の亡霊」「薄化粧」「仔鹿物語」など。喜怒哀楽を体当たりで表現し、主役を食う演技で人々を魅了した。

「川谷拓三しかできな役、芝居」というものを目指してきた。時間はかかったが、殺られ役の中に、自分の演ずべき役を発見したのだ。全出演作品の7割近くが「殺された」役だった。3000回死んだから、3000人の男の生き様を演じたことになる。一人ひとりの男の一生を表現しようと死んできたのだ。

川谷は出演した作品の台本をすべて持っていると言う。メモで真っ黒になった台本は、役者としての成長の記録だ。自分独自のデータベースをコツコツとつくってきたということになる。本人にとっては財産、宝物だ。そういった着眼と努力、心掛けが川谷拓三という独特の名優をつくりあげたのである。

「役者とは「役」という他人の人生を掠めとりながら、新しい自分を発見する職業である」「役者はアーチストだから、常になにか新しいものに挑戦し続けるのが使命だ。その使命とは観客の期待、イメージを快く裏切ることだ」。川谷拓三は新しい「川谷拓三」を追い求めた。

1991年刊行の「3000回殺された男」というタイトルの半生記を読んだ。そこには、あと10年でこの映画の世界の中で「川谷拓三にしかできない世界」というポジションを作りたい、今僕は必至だと語っている。それから亡くなる1995年までは5年余しかなかったのは惜しまれる。

NHK「あの人に会いたい」では、「きっとある。おもしろいとこ、楽しいとこってのは、どんな仕事にでも」と語り、自分の職業を早く好きになる人の勝ちだとも言っている。誰かが必ず見ている。この言葉には大いに共感する。どの世界でも同じだ。

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