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「名言との対話」4月12日。ペギー葉山「すべてが、つながっているんですよ。、、、私の人生って、『歌の扉』があって、それを開けると、また次の『歌の扉』があって、という、そういう運命的な歌の神様に導かれたような気がするの」

ペギー葉山(ペギーはやま、本名:森 シゲ子(もり しげこ)旧姓:小鷹狩(こたかり)、1933年12月9日 - 2017年4月12日)は、日本女性歌手タレント

ペギー葉山のヒット曲には「南国土佐を後にして」「ドレミの歌」「学生時代」「ラ・ノビア」「ふるさと」「花は咲く」などがある。本名・小鷹狩繁子の家は音楽に囲まれた一家だった。都会的で上品で知性のある甘いフィーリングで歌うペギー葉山命名は、マーガレットの愛称である「ペギー」に、御用邸がありいい感じのサウンドの「葉山」をくっつけたものである。

門田隆将『奇跡の歌 戦争と望郷とペギー葉山』(KADOKAWA)を読んだ。

「南国土佐を後にして」は、中国戦線で戦った作者不詳の兵士の作で、土佐出身者で構成された鯨部隊の兵隊たちが中国の曠野で歌い継いだ「南国節」を、戦後、この詠み人知らずの戦場の望郷の歌を武政英が発掘・編詩し、補作編曲し、ジャズ歌手だったペギー葉山が高知テレビ開局記念番組でが歌い、大ヒットした歌である。

「南国節」は「中支にきてから幾年ぞ」「月の露営で焚火を囲み」「俺も自慢の声張り上げて」「国の親父は室戸の沖で」「俺も負けずに手柄をたてて」という男の歌だった。その歌詞を「都へきてから幾年ぞ」「思い出します故郷の友が」「月の浜辺で焚火を囲み」「わたしも自慢の声張り上げて」「国の父さん室戸の沖で」「わたしも負けずにに励んだあとで」と女歌に変えたのだ。

ペギー葉山ジャズ歌手であり、歌うことを渋ったが、ジャズのフィーリングで、アルトのペギー節で歌って欲しいというNHKの妻城良夫プロデューサーの申し出に乗ってしまったのだ。その結果、この歌は戦後最大のヒット曲と言われるまで日本人の心に響いた。この歌を歌うペギー葉山の姿はテレビでよく見たし、その歌声もよく聞いたのだが、このような歴史やエピソードがあることは知らなかった。

その後、当時35歳の三島由紀夫から、ロサンゼルスに行くならニューヨークのブロードウェイでミュージカルを見ることを勧められた26歳のペギーは「サウンド・オブ・ミュージック」の「ドレミの歌」に感動する。ホテルでに日本語への翻訳を試みる。その結果、ドは「ドーナッツのド」、レは「レモンのレ」。ミは「みんなのミ」、ファは「ファイトンのファ」、ソは「青い空」、ラは「ラッパのラ、シは「しあわせよ」の歌詞ができあがった。この「ドレミの歌」は小学1年生の音楽の教科書に採用され、誰でも知っている歌になっていった。

ペギーの夫は10歳ほど年上の俳優の根上淳である。二枚目スター、悪役、渋いわき役をこなす名優だ。

「歌を?なんでやめなきゃいけないんだい」という言葉は、プロポーズの時に仕事を辞めたくないというペギーに対しての根上の返事だった。続いて 「村の文化祭のスターならともかく、立派なプロの歌手のあなたがやめる必要なんかないだろう。それにこれからの女性は社会とのつながりが必要だよ。どんどん女は仕事すべきだよ」と言ったそうだ。それが決め手になった。

根上42歳、ペギー32歳での結婚である。本名は森不二雄と森繁子。同姓だ。そしてどちらも東京中野生まれ。年下の江利チエミは「おめでとうペギー! あなたの旦那様、私の初恋の人なのよ。私の大切な人を幸福にしてくれなきゃ承知しないわよ。アハハハ、、、」と二人の結婚を祝福した。二人はおしどり夫婦として有名だった。それを証明する夫婦の共著『代々木上原めおと坂』では、根上淳は妻を「信頼できる同志、戦友、上官殿」と語っている。

歌は慰みである。歌は励ましである。歌は教育である。この歌を歌うことを仕事にして多くの人の心に灯火をつけたペギー葉山は、「とても幸せな人生だったんだな」と述懐しているのだ。私たちの人生行路にはいくつもの大小の扉がある。その扉を思い切って開けると違う世界が目の前に広がる。その連続が人生ということになる。後から振り返ってペギー葉山が言うように「すべてが、つながっている」と思えるようなら、幸せな人生だったということだろうか。

奇跡の歌 戦争と望郷とペギー葉山 (角川文庫)

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