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6月23日。金 鍾泌「今は過去の問題よりこれからの成長の方が重要である。そのためには日本の援助が必要だ」

金 鍾泌(キム・ジョンピル、1926年1月7日 - 2018年6月23日)は、大韓民国の政治家。

1945年日本帝国主義からの解放後、1948年陸軍士官学校第8期卒業し、軍情報部関係のポストを歴任した。朴正煕の姪・朴英玉と結婚し、1961年朴主導の軍事革命を補佐する役割を果たした。韓国中央情報部(KCIA)を創設して初代部長。1963年民主共和党創立に尽力、日韓国交正常化に尽くしたのち、1971年国務総理(首相)に就任する。以後、失脚、復権を繰り返す。1979年朴大統領暗殺後、金泳三、金大中とともに大統領候補となり「三金時代到来」といわれたが、1980年5月、軍事反乱を主導した第五共和国新軍部に連行され政界から追放された。1985年政治活動が解禁され、金鍾泌(1926年生)、金大中(1925年生)、金泳三(1927年生)の「三金」は長い間、合従連衡を繰り返す。1997年大統領選で政敵であった金大中候補を支持し、1998年発足した金大中政権の国務総理となる。2007年には、保守のハンナラ党の李明博候補支持を表明し大統領に当選させた。

1960年代から韓国政治史を牛耳ってきた3人の金の動きは、「永遠の敵も、仲間もいない」ことを思わせる。三金時代は、近代化と民主化の実現に寄与した一方で、地域主義とボス政治、金権政治などの弊害を残したとされている。大統領となった二人の金とは違い、 鍾泌は朴軍事政権時代と、その後の民主化時代においても長い間にわたって重要な役割を果たし、軍事政権と民主政権の双方で国務総理という重責を担った。そして83歳で亡くなった金大中、87歳の金泳三に対し、ほぼ同年生まれの金鍾泌は、2018年に92歳で亡くなるまでまで永く生きて政治に関与し続けた。

韓日議員連盟の初代会長を務めるなど韓国政界における知日派の重鎮として知られ、日本での知己も多い金鍾泌は、日韓国交正常化の韓国側の立役者でもあった。1962年の大平正芳外相との日韓交渉では、「今は過去の問題よりこれからの成長の方が重要である。そのためには日本の援助が必要だ」との思いで、「無償3億ドル、有償2億ドル」で対日請求権問題に決着をつけ、日韓国交正常化へ道を開いている。竹島 の領有権問題に関し、日本側の国際司法裁判所への付託案を拒否したうえで、日本側に独島問題の解決策として独島の破壊(爆破)を提案したというエピソードもある。

政情が変転する独立後の韓国政界にあって、独裁から民主まで揺れ動いたように見えるが、その時々の情勢に応じて、その時点での正しい判断を志向したということだろう。それが「今は」という言葉に現れている。

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