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10月25日。岩谷時子「「夕鶴」の鶴みたいに、自分の身を削って詞を書くんじゃない」

岩谷 時子(いわたに ときこ、1916年(大正5年)3月28日 - 2013年(平成25年)10月25日)は、日本の作詞家、詩人、翻訳家。

岩谷時子は、宝塚で出発した8歳下の越路吹雪の献身的で有能なマネジャー、そして大ヒットを連発する作詞家、その二つの顔を持っている。 『ラストダンスは私にーー岩谷時子物語』(村岡恵理)は、岩谷時子の若い時代を含む日記を材料として、71歳の時点までを描いた伝記だ。

47歳で12年勤めた東宝を辞めた。出版部時代を含め24年の勤め人生活だった。ほとんどは越路吹雪のマネジャーだった。その後はボランティアとして越路のマネジャーを続けた。「売れているときはタレントの魅力とされるが、落ち目になれば、全てはマネージャーの責任だった」「マネージャーの仕事の大半は、苦言と駆け引きである」。そして引き際の見極めと演出はマネジャーとしての最大の課題だと考えており、その仕事を誠実にこなしていく。幾多の困難と愛憎を経た越路吹雪との友情は特別だった。

作詞家としての発言も興味深い。「夕鶴」の鶴みたいに、自分の身を削って詞を書くのが作詞家だという。女性でなければ書けないことばというのがたしかにあるから女性の作詞家は存在価値があると考えていた。この人についての情報の少なさは当時から不思議に思っていたが、作詞家というのは夢を売る仕事であり、取材などに応じて顔を表に出すものではないという信念で仕事をしていたことを知って納得した。

『愛の讃歌』をはじめとする越路が歌うシャンソンの訳詞を手がけたのをきっかけとして作詞家・訳詞家としても歩み始める。訳詞は買い取りだが、作詞は印税制となった。

1963年のザ・ピーナッツ『恋のバカンス』、岸洋子『夜明けのうた』、弘田三枝子『夢見るシャンソン人形』、沢たまき『ベッドで煙草を吸わないで』、園まり『逢いたくて逢いたくて』、加山雄三『君といつまでも』、佐良直美『いいじゃないの幸せならば』、1968年のピンキーとキラーズ『恋の季節』など数多くのヒット曲を生み出してきた。1964年、「ウナ・セラ・ディ東京」「夜明けの歌」で、日本レコード大賞作詞賞。1966年、「君といつまでも」「逢いたくて逢いたくて」で2回目の日本レコード大賞作詞賞。 作曲を手掛ける加山雄三との出会い。「ふたりを夕やみがつつむこの窓辺に、、」の「君といつまでも」、「風にふるえる緑の草原、、」で始まる「旅人よ」。加山雄三の爽やかさをイメージした岩谷の詞は純愛とロマンに満ち溢れたものとなった。加山が團伊玖磨と山田耕筰を足して2で割ったペンネームの弾厚作の作曲、作詞の岩谷時子は黄金コンビだった。

岩谷がライフワークとしたのはミュージカルだった。「ウエストサイド物語」「レ・ミゼラブル」は何度も再演され、その度に稽古に立ち会い、訳詞のやり直しをし続けた。西洋のメロディに美しい日本語を生かすことに情熱を燃やし続けた。

1970年代後半だっただろうか、JALの千歳にいた時代に札幌のコンサートで越路吹雪の歌を堪能したことがある。「あなたの燃える手で 私を抱きしめて、、」で始まる「愛の賛歌」が深く印象に残っている。

岩谷時子は90歳を越えるまで現役の作詞家として活躍するなどそれから四半世紀を生きた。生涯独身であった岩谷時子にとって、「夕鶴」のたとえのように、作詞家という仕事は、身を削る仕事だったのである。

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