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「名言との対話」1月18日。新渡戸十次郎「三本木原の開拓」

新渡戸 十次郎(にとべ じゅうじろう 文政3年6月11日ー1820年7月20日)ー慶応3年12月24日1868年1月18日))は、江戸時代後期の盛岡藩士。

新渡戸伝の次男。新渡戸稲造の父。陸奥盛岡藩士。安政2年から父とともに三本木原(青森県十和田市)の開拓にくわわり、その功によって登用され、勘定奉行、用人などを歴任。のち独断的であるとして同僚の非難をうけ、蟄居を命じられた。慶応3年12月24日死去。48歳。名は常訓。字は昭瑶。号は謙斎、受益堂。

以上は、日本人名大辞典の記述である。簡単な記述であるが、その奥には壮大なドラマがある。

現在、青森県有数のコメどころになっている十和田市の稲生川は、三本木原開拓によってできた人口の川である・火山灰台地の荒涼たる平原であった。南部盛岡藩士の新渡戸傳は、いつかこの三本木原の開拓をしようという志を持っていた。領内の開墾を手がけて成功し1848年に勘定奉行となる。「開拓のエキスパート」となったこの人は62歳の時にようやく三本木原御用掛となり工事に着手する。奥入瀬川から三本木原、三本木原から太平洋へ向かう

川をつくる必要があった。途中、江戸詰めとなり、この指揮は息子の十次郎がとり、1859年に4年の歳月をかけて完成する。この川は藩主の命名により1860年に稲生町、稲生川、稲生橋となった。その後、第二次上水計画で水量を増やすための工事に着手するが、1867年に十次郎が亡くなり、新渡戸傳は孫の七郎とともに開拓にあたり、傳は藩の大参事となる。明治維新の混乱期で未完成となったが、国営事業として完成された。傳は78歳で逝去する。七郎は会津藩士が移民した斗南藩士の一部を三本木に移住させている。

新渡戸十次郎は、父の構想を広げ、三本木の新町の雄大な都市計画にまで発展させた。区画整理、用水路、土地利用区分など近代都市計画の先駆的な計画であった。それが十和田市の中心街となっている。

1862年に、十次郎の三男が生まれ、開拓地域で初めて収穫した稲に因んで稲之助と名付けられた。この子が後の新渡戸稲造である。

2005年に岩手県花巻市の新渡戸記念館を訪問した。岩手県花巻市に清澄な風格の漂う念館である。新田開発に功績のあった新渡戸家を顕彰する記念館で、この中に稲造の業績も展示されている。新渡戸家は、傳、十次郎、七郎、そして世界で活躍した稲造という人材を輩出させている。だから新渡戸稲造記念館ではないのだ。山形の記念館が、阿部次郎記念館でなく、阿部記念館となっていたのと同じである。

2015年に青森県の高校の進学指導教員の研修会で講演したときに、「森県十和田市にある新渡戸記念館が耐震性の問題から閉館されています。市の助成が受けられなくなる危機にあり、どうなるか心配です。新渡戸稲造は郷土の誇る偉人です。十和田の記念館は盛岡のものより素晴らしいと思います。先生はご訪問なさいましたか。花巻にも記念館があり、もしこの3つのいずれかが未訪問であれば、是非おいでくださいませ」という感想をもらったことがある。

十和田市立新渡戸記念館のホームページを覗くと、子孫の新渡戸常憲(音楽評論家)が2021年1月1日付で「廃館取り壊し問題」の経緯と存続の決意を述べていた。最高裁までもつれており、市は明け渡しの提訴をしているようだ。この新渡戸常憲という人の写真をみると、花巻か十和田かははっきりしないが、どちらかの記念館で会話した記憶が蘇ってきた。稲造の孫だったような気がする。

全国の人物記念館は、このような存続の問題に襲われている。その典型が新渡戸記念館をめぐる紛争だろう。

新渡戸十次郎は、父の傳から受け継いで、その長男にも三本木原の開拓の大事業を受け継がせている。この事業は十次郎の計画どおりに、稲生川を太平洋岸まで到達させた。十次郎の三男が「稲」の字をもらい、新渡戸稲造として「われ太平洋の橋とならん」という志を実現している。稲造は「稲」という名前をもらった歴史を背負って世界にはばたいたのであろう。こういう大人物は一代ではできないのだと感銘を受ける。

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