「名言との対話」1月1日。銭屋五兵衛「世人の信を受くるべし。機を見るに敏かるべし。果断勇決なるべし」
銭屋 五兵衛(ぜにや ごへえ、安永2年11月25日(1774年1月7日) - 嘉永5年11月21日(1853年1月1日)は、江戸時代後期の加賀の商人、海運業者。金沢藩の御用商人を務めた。
石川県金沢市出身。代々両替商を営んでいた家で、父が海運業を始め廃業する。五兵衛が海運業を再開する。日本海を対象とする北前船が活躍する時代であった。
39才から海の商いに入り、積極果断な商略で廻船で大商いをした。最盛時には全国34カ所に支店があり、千石積み以上の持船は20艘を数えた。すぐれた経営手腕を発揮し豪商となった人物である。
加賀藩の御用商人「勝手方御用」として、御用銀の調達、藩の直営船の管理役に任ぜられ、藩財政に大きな貢献をし、「海の百万石」と言われた傑物である。この人は桐生悠々「銭屋五衛兵」、海音寺潮五郎「銭屋五衛兵」、舟橋聖一「海の百万石」、津本陽「波上の館」、童門冬二「銭屋五兵衛と冒険者たち」などの小説等に描かれている。
銭屋五兵衛は藩の御用金調達などに尽力した後。河北潟干拓事業に着手するが、反対派の中傷による陰謀で無実の罪で80歳で獄中死するという数奇な運命をたどる。財産は没収、家名断絶となり、銭五財閥は崩壊する。しかし明治維新後は鎖国体制下で海外交易を試みた先駆者、先覚者として評価が高まった。
2009年に石川県金沢市の銭屋五兵衛記念館を訪問して、この人物のスケールの大きさに驚いた。案内してくれた人は、「ゼニゴ」と親しみをこめて呼んでいた。
「初鶏や家家けっこうな八重の年」が辞世の句。
北前船の豪商・銭屋五兵衛の「信」「敏」「勇」は、空間と時間の交点に立ち、勇気を持って決断することの重要性を教えてくれる。
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