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「名言との対話」 2月14日。山本周五郎「苦しみつつ働け、苦しみつつなほ働け、安住を求めるな。この世は巡礼である」

山本 周五郎(やまもと しゅうごろう、1903年(明治36年)6月22日 - 1967年(昭和42年)2月14日)は、日本の小説家。

4年前の2016年2月14日の「名言との対話」2月14日には山本周五郎を書いた。

「人間がこれだけはと思い切ったことに十年しがみついていると、大体ものになるものだ」。頼山陽に「十年一剣をみがく」という漢詩の一節がある。不遇な生涯への不平を剣で払うといういみが込められているが、何事であれ十年の歳月を投入して自身の技を磨けという趣旨に使われる。一流の芸術家などを調べると1万時間を費やしているという研究もある。毎日3時間を10年続けると1万時間に達する。このくらいのペースで何かに打ち込むとものになるという。結婚生活も1年続くと紙婚式から始まる。2年では藁婚式、3年は草婚式、4年で花婚式、5年で木婚式、7年で銅婚式、そして10年では錫婚式となる。錫は錆びない、柔らかい性質を持ち、長く使うと表面に落ち着きがみられるという特質があるから名付けられた。少し落ち着いて長く続ける基礎が固まったということだろう。私が長く続けている知的生産の技術研究会でも30歳あたりから多くの偉い人の講演を聴いたが、「新聞の切り抜きを10年続けると本が書ける」というアドバイスを聞いたことがある。40歳に時に初めての単著を書いたが、この勉強会に入って10年経ったところだった。私のブログ「今日も生涯の一日なり」も毎日書き続けて本日で4157日となった。10年以上となったが、確かに最近は「十年一剣をみがく」という心境になっている。10年という年月は長い。途中で環境も変わるし、興味も変化していく。内外ともに移ろっていく。この中で軸足を定めてただひたすらに技を磨いていくのは生やさしいことではない。しかしそれをやっていかねばどうにもならないのは確かだ。

それから4年経った。この間、山本周五郎に関する記述がブログに多くなる。今から振り返ると、この程度の紹介では山本周五郎のことは表現できない。今日は、この4年間で書き綴った情報を並べてみることにする。

2016年2月19日大村智先生ノーベル賞受賞者)の愛読書は、司馬遼太郎と山本周五郎だ。

2017-06-06山本周五郎展(山梨県立文学館)--要するに「うまく書こう」といふ気持ちから抜けることだ。 山梨県立文学館で開催中の「山本周五郎展」をみる。1903年山梨県大月市初狩町生まれ。本名は清水三十六(さとむ)。貧困のなかで生長する。甲州人気質を嫌悪していた。それは面従腹背、吝嗇、フレキシビリティがない、妄執。山本周五郎には恩人が二人いる。生涯第一の恩人は小学校の水野実先生「君は小説家になれ」とアドバイスをもらっや。このことが一生を決定したのである。生涯第二の恩人は小学校卒業後に奉公にでた東京木挽町の質屋「きねや」山本周五郎商店の主人である。店主は奉公人に英語学校、簿記学校に通わせた、徳のある人だった。「真実の父」と呼んだ。筆名の山本周五郎は、この恩人の名前だったから、その恩の深さがわかる。 20歳で関東大震災に遭い、山本商店は焼失。周五郎は神戸の須磨、帝国更興信所文書部を経て、1928年浦安に転居し、定期蒸気船で京橋の日本魂社記者として通うが、3時間ほどかかり昼過ぎに到着、遅刻が多くクビになる。浦安は風景が気に入っている。1929年、児童映画脚本懸賞に「春はまた丘へ」で1位に当選、これは映画化された。1930年、結婚し鎌倉へ。1931年、馬込文士村に転居。尾崎士郎、村岡花子、藤浦洸、石田一郎などと交流する。尾崎士郎からは「曲亭」(へそまがり)という名前をつけられる。人が白と言えば黒といい、右と言えば左と反論する。第17回直木賞に「日本婦道記」で擬せられるが辞退。「もっと新しい人、新しい作品に当てられるのがよいのではないか。さういう気がします」が辞退の弁だ。文学は文学賞のために存在するものに非ずという堅い倫理観の故であった。その後も「樅の木は残った」で毎日出版文化賞、「青べか物語」で文藝春秋読者賞も辞退している。読者から与えられる好評以上のいかなる賞もあり得ないと確信していた。1945年に妻きよは不帰の客となった。武家型の忍従の夫人だった。山本周五郎は41歳。1946年、自宅の筋向かいに住む江戸っ子・吉村きんと再婚。あけっぱなしで明朗。44歳、45歳頃「純文学も大衆文学もないという足場を確かめた。12,3年かかった。これから、その足場に立って、私の小説を書いてゆくわけである。すべては「これから」のことであるし、時間のかかることであろう、、」。土岐雄三あての葉書「一日五枚以上は、石にかじりついても書こう」と毎日執筆することの大切さを述べている。人間嫌い。講演は拒絶。園遊会は欠席。「そんな時間はおれにはない。小説家には読者のために書く以外の時間はないはずだ」とい反骨ぶりだった。1955年以降は、おそるべき力作のラッシュであった。1960年に発表した「青べか物語」は生涯最高と評価された傑作である。「長い坂」と「さぶ」はすぐれた自己形成小説だ。「要するに「うまく書こう」といふ気持ちから抜けることだ」「わが人生のもっともよく有り難き伴侶 わが妻きんよ そなたに永遠の幸福と平安のあるやうに 周」。「文壇酒徒番付1963」が貼ってあった。それによると、横綱は石川淳と井伏鱒二。張り出し横綱が山本周五郎と河上徹太郎。大関は吉田健一と壇一雄。「満足やよろこびのなかよりも、貧困や病苦や失意や絶望のなかに、より強く感じることができる」「大切なのは「生きている」ことであり、「どう生きるか」なのである」「人間が一つの仕事にうちこみ、そのために生涯を燃焼しつくす姿。--私はそれを書きたかった」

2017-09-23山本周五郎ほど箴言の多い作家は珍しい。『青べか日記』は箴言で成り立っている。人生作家。説教酒で煙たがられた。山本周五郎の人生の指針「苦しみつつ、なおはたらけ安住を求めるな この世は巡礼である」(ストリンドベリイ)「人の偉大さはなにを為したかではなく、なにかを為そうとするところにある」。山本周五郎は、小学校卒業後に東京木挽町の山本周五郎商店に徒弟として住み込み、店主にお世話になった。ペンネームはそこから取った。直木賞などもすべて辞退している。この人の人生観には興味が湧く。9月末から神奈川近代文学館で始まる「山本周五郎展」は見逃せない。山本周五郎『泣き言はいわない』(新潮文庫)を読了。
2017-10-03『間門園日記(まかどえんにっき)-山本周五郎ご夫妻とともに』(斉藤博子)--「苦しみつつ働け、苦しみつつなほ働け、安住を求めるな。この世は巡礼である」。『間門園日記(まかどえんにっき)-山本周五郎ご夫妻とともに』(斉藤博子)(深夜叢書社)を読了。神奈川県近代文学館で開催されている企画展を訪問する準備として、山本周五郎に関する本を読んだ。 横浜市の旅館・間門園には山本周五郎が創作の場として独居していた離れ家があった。そこで2年弱、秘書として仕えた著者の日記である。山本周五郎61歳から63歳で、著者は27歳から29歳。素顔の山本周五郎がわかる本だ。山本周五郎の日常と人生観がよくわかる。そこに絞ってピックアップしてみたい。・いわれてからするのは用ではない。・僕は物書きですから全部作品の中でいいます。・食べ物だけは「ぜいたくさせてね」・女性の出産より苦しいよ。・人生は点のように短いものだから一日を大切にするんだよ。僕の人間を見る眼を良くみておきなさい。・恵まれなかった生涯と合わせてベートーベンの作品が好き。・家庭に入ったら働いてはいけない(収入を得るな)男が駄目になる。・人間は弱いから温かい環境にいては仕事ができない。仕事を別に持って独居している。・日本酒は醸造だから体に悪い。飲むならウイスキーに。保証人の印だけは押してはいけない、お金を貸すならあげるつもりで貸すこと。・より多くの人に意味がわかって読んでもらえる本が良い。ヘミングウェイをみなさい。・女優には会わない。将来性のある男の人には話をする。・自分の作品には挿絵はいらない。・食生活で健康の90%は維持できる。・時代物を書いているつもりはない。本当のことでなければ書かない。・日本の作品は僕と島尾敏雄を読めば良い、あとは外国の作品を読みなさい。日本は島国で視野が狭いから。・人間関係ができるとその人を通じての仕事を尊重する。・酒をうまいと思って飲んだことはない、誇張していえば、いつも毒を飲むような気持ちだった。・相手のためになること、正しいと思うことは立場を無にしていうこと。・多くの人に読んでもらえる安い価格の文庫を好む。・作家を志す者は毎日書け。書く習慣をつけること。同業者が集まっても得るものがない。そんな時間があったら下町を歩いた方がよい。・お金は貯えるものではない。お金は使うためにある。・座右の銘はストリンドベーリの書「青春」より。「苦しみつつ働け、苦しみつつなほ働け、安住を求めるな。この世は巡礼である」・文壇で現役でなけれな生きていたくない。・僕には一生書き切れないテーマを持っているので時間がない。・五十を過ぎたた「ながい坂」を読んでごらん。僕の書いたもののなかで最高の作品だよ。・山本質店では物干しにござを敷いて勉強した、僕のように総て独学の作家はもう出ないでしょう。・僕の人生は失敗しなかったことが失敗だった。・政治は庶民のことは何もしてくれないから関心を持ってはいけない。

2017-10-04神奈川近代文学館で、没後50年記念の「山本周五郎展」が開催中だ。童門冬二が師匠と仰ぐ作家・山本周五郎(1903年ー1967年。享年64)は直木賞を始め、あらゆる賞を辞退している。それは、作家は良き小説を書けば良いという人生観からきている。そして山本は純文学と大衆文芸の差は認めなかった。この作家に興味があるのは、丁稚奉公をした「きねや」の主人で父と仰ぐ山本周五郎(洒落斎)の名前を、ペンネームにしたという逸話があるからだ。物心両面で若き日を支えてくれ、「今でも本当の父と思ってゐます」と遺族に書いているように、実の父親以上に敬愛していたのだ。そのきねやは1923年の関東大震災で焼失し休業となる。このとき、文筆で身を立てようと決心する。山本周五郎の座右の銘は「苦しみ働け、常に苦しみつつ、常に希望を抱け。永住の地を望むな。此世は巡礼である」。このスエーデンンの劇作家・ストリンドベリイの「青春」の言葉は、「ひどく予を鞭撻し、また慰められた」と述懐している。文学の仕事というのは、「そのときに、どういう悲しい思いをしたか、その悲しい思いの中から彼がどういうことををしようとしたかということを探究するのが文学の仕事だ」と語っている。周五郎の作品7つが教科書に載った。ひとつの作品が中学、高校のいずれにも採択為れた例は少ない。山本周五郎の小説は、生き方の教科書だ。また、ラジオ東京テレビ(TBS)では山本周五郎アワーがあり茶の間の人気を集めていた。1988年に創設された山本周五郎賞は物語性の強い作品に与えられている。第1回の山田太一から始まり、吉本ばなな、宮部みゆき、篠田節子、江國香織、京極夏彦、熊谷達也、天童荒太、恩田睦、伊坂幸太郎、原田マハと、なかなかいい人選をしている。面白いのは、「文壇酒徒番付」(1964年1月)が貼ってあり、何と山本周五郎は東の横綱に鎮座していた。張出横綱は井上靖と源氏鶏太。大関は高橋義孝、壇一雄、吉田健一、水上勉だった。最晩年の『ながい坂』は、人生の長い坂を一歩一歩登っていく主人公の姿に周五郎の理念の影を見出すことができるとあり、ショップで上下巻を購入した。

2017-11-24山本周五郎の箴言集『泣き言はいわない』--「この世は巡礼である」。山本周五郎『泣き言はいわない』(新潮文庫)を読了。山本周五郎ほど箴言の多い作家は珍しい。本の内容自体が箴言で成り立っていると言えるし、山本の酒じゃ説教酒で人生論が多く仲間からは敬遠されていたそうだ。その山本の小説の箴言のなかから編んだ箴言集である。山本周五郎の人生の指針は、「苦しみつつ、なお働け、安住を求めるな この世は巡礼である」(ストリンドベリイ)。スエーデンの作家・ストロンドベリは「最も大きく且つ尊く良き師であり友である」と『青かべ日記』に記されている。 以下、私の心に響いた言葉をピックアップ。・人生は教訓に満ちている。しかし万人にあてはまる教訓は一つもない。・人間がこれだけはと思い切った事に十年しがみついていると大抵ものになるものだ。・大切なのは為す事の結果ではなくて、為さんとする心にあると思います。その心さえたしかなら、結果の如何は問題ではないと信じます。・持って生まれた性分というやつは面白い。こいつは大抵いじくっても直らないもののようである。・能のある一人の人間が、その能を生かすためには、能のない幾十人という人間が、眼に見えない力をかしているんだよ。・仕合わせとは仕合わせだということに気づかない状態だ。・世間は絶間なく動いています、人間だって生活から離れると錆びます、怠惰は酸を含んでいますからね。・養育するのではない、自分が子供から養育されるのだ、これが子供を育てる基本だ。・およそ小説作者ならだれでもそうであろうが、書いてしまったもんおには興味を失うものだ。・人間が生まれてくるということはそれだけで荘厳だ。・人間の一生で、死ぬときほど美しく荘厳なものはない。それはたぶん、その人間が完成する瞬間だからであろう。

2017-12-03山本周五郎『ながい坂』(上巻)を読了。周五郎の自叙伝であり、共感を呼ぶ自己形成小説の絶品。山本周五郎『ながい坂』(上)(新潮文庫)を読了。最晩年の『ながい坂』は、人生の長い坂を一歩一歩登っていく主人公の姿に周五郎の理念の影を見出すことができる作品。総ページ数は1000頁を超える長編小説。志を持つ主人公をめぐる物語だが、登場人物の口を借りて周五郎の特徴ともいうべき人生訓が随所に散りばめられている。清廉潔白な主人公が泥にまみれながら成長していく物語。志を達成するかどうか、下巻を読みすすめたい。 「下巻」の文芸評論家・奥野健男の解説から。心して読みたい。・自分の屈辱の運命をはねのけ、その下積みから這い上がって、まともに生きようとする人間の姿を描きたい。作者は一揆とか暴動とか革命とかいうかたちでなく、圧倒的に強い既成秩序の中で、一歩一歩努力し上がってきて、冷静に自分の場所を把握し、賢明に用心深くふるまいながら、自己の許す範囲で不正とたたかい、決して妥協せず、世の中をじりじりと変化させてゆく、不屈で持続的な、強い人間を描こうと志す。・学歴もないため下積みの大衆作家として純文壇から永年軽蔑されてきた自分が、屈辱に耐えながら勉強し、努力し、ようやく実力によって因襲をを破って純文壇からも作家として認められるようになったという自己の苦しく苦い体験をふまえての人生観である。・既成秩の内部における復讐と内部からの改革の物語なのだ。・「おのれの来し方の総決算として『ながい坂』にとりかかりました。「私の自叙伝として書くのだ」とたいへんな意気込みでした。、、、そうです『ながい坂』こそ、山本さんの『徳川家康』であったのです。」(木村久に典)・日本文学においてこのくらいロマンティシズムを抑えた立身出世小説を、このくらい社会との関連において綿密に積み重ねられたビュルドウングス・ロマン(自己形成小説)をほかに知らない。・それはそのまま今日の会社員、公務員などのサラリーマンの世界に通じている。自分のつとめている企業を全宇宙とし、その中で下積みから努力し、認められ責任ある地位につき、それをよりよく勇気をもって改革し、社業の発展に自己の理想と全人生を賭けるサラリーマンの切実な心情をと生き方がここに描かれている。・『ながい坂』の主人公の生き方は、山本周五郎の作家、売文業者としての生き方、処世術の自叙伝だと思う。こういう細心な生き方をしながら、ついに裏街道や挫折から浮びあがることのできない貧しい庶民のあきらめに似た哀歓を、絶品ともいうべき短編にうたいあげている。

2017-12-11山本周五郎『ながい坂』(下)を読了。奥野健男が巻末の「解説」で次のように述べている。「作者は一揆とか暴動とか革命とか言うかたちで爆、圧倒的に強い規制秩序の中で、一歩一歩努力し上がってきて、冷静に自分の場所を把握し、賢明に用心深くふるまいながら、自己の許す範囲で不正と戦い、決して妥協せず、世の中をじりじりと変化させてゆく、不屈で持続的な、強い人間を描こうと志す。」 「おのれの来し方の総決算として『ながい坂』にとりかかりました。「わたしの自叙伝として書くのだ」とたいへんな意気込みでした。」「学歴もないため下積みの大衆作家として純文壇から永年軽蔑されてきた自分が、屈辱に耐えながら勉強し、努力し、ようやく実力によって因襲を破って純文壇からも作家として認められるようになったという自己の苦しくにがい体験をふまえての人生観である。」 以下、私が共感する主人公の三浦主水主の考えや言葉。奥野健男のいうように、著者の人生観だと思う。人間はその分に応じて働くのが当然である。 人も世間も簡単ではない、善悪と悪意、潔癖と汚濁、勇気と臆病、貞節と不貞、その他もろもろの相反するものの総合が人間の実体なんだ、世の中はそういう人間の離合相剋によって動いてゆくのだし、眼の前にある状態だけで善悪の判断は出来ない。 「人間のすることに、むだなものは一つもない」と主水正は云った。「眼に見える事だけを見ると、ばかげてイタリ徒労だと思えるものも、それを繰返し、やり直し、つみかさねて行くことで、人間でなければ出来ない大きな、いや、値打ちのある仕事が作りあげられるものだ、、、」「人間は生まれてきてなにごとかをし、そして死んでゆく、だがその人間のしたこと、しようと心がけたことは残る」 いちばん大切なのは、その時ばったりとみえることのなかで、人間がどれほど心をうちこみ、本気で何かをしようとしたかしないか、ということじゃあないか、、」 人間はどこまでも人間であ利。弱さや欠点を持たない者はいない。ただ自分に与えられた職に責任を感じ、その職能を果たすために努力するかしないか、というところに差ができてくるだけだ。 しかし、今日まで自分は自分の坂を登ってきたのだ、と彼は思った。」「そして登りつめたいま、俺の前にはもっと険しく、さらに長い坂がのしかかっている」と主水正はまた呟いた、「そして俺は、死ぬまで、その坂を登り続けなければならないだろう」

2018-04-15三重野康(日銀総裁は読書家である。読書日記をつけていて年平均80冊という。私の2017年の読書日記は84冊であるから、同じようなペースである。三重野は伝記と古典を好んだ。また山本周五郎は若い頃から愛読していた。山本周五郎にはファンが多い。ノンフィクションの沢木耕太郎もそうで、最近『山本周五郎名品館』全4巻の傑作短編アンソロジーを編んでいる。

2018-05-04長洲 一二(神奈川県知事)は「釈尊・マルクス・周五郎」を尊敬するとユーモアも混ぜながら、山本周五郎を語ることもあった。山本周五郎は偉そうな口をきく人間を心底嫌っていた。ご都合主義の「革新」イデオロギーよりも、人間の真実への「保守」を尊んだと長洲は書いている。革新知事だった長洲知事は次第に保守に傾いていく。最近、沢木耕太郎が「文芸春秋」で「山本周五郎との三度の出会い」という一文を書き、「山本周五郎名品館」四冊を編んでいることを知った。

2019-12-23「名言との対話」12月23日。早乙女貢「会津武士の末裔としての血の意識が痛切に私の運命を支配している」。早乙女 貢(さおとめ みつぐ、1926年1月1日 - 2008年12月23日)は、日本の歴史小説・時代小説作家。戊辰戦争で賊軍の会津藩士であった曾祖父はアメリカにわたる。その娘の祖母から旧満州で会津精神を叩き込まれた。15歳あたりで作家を志して「会津」を書くことを意識する。敗戦後、中国旧満州ハルピンから九州博多に引き上げる。1948年、上京し山本周五郎の知遇を得て師事する。1969年、「僑人の檻」で直木賞を受賞し、その後は、時代小説・歴史小説を主軸としながら、現代小説、ミステリー、歴史エッセイ、評論、紀行など多彩な創作活動を展開した。大衆文学研究賞特別賞を受賞した2003年刊行の「わが師 山本周五郎」(集英社文庫)を読んだ。尾崎四郎が「曲軒」とつけたように狷介で扱いにくい周五郎に可愛がられて、文学修行と人間修行をする。本名は1月1日生まれの太閤秀吉に因んだ鈴ヶ江秀吉である。ペンネームは若い娘に貢ぐという意味だ。師は執拗にこの名前の変更を促した。作家は作品で勝負すべきで、名前は平凡でいいという考えだったが、早乙女は応じていない。この本では身近で観察できた弟子は師の思想、日常を語っている。師を語ることは弟子自らを語ることになる。私も周五郎のファンであり、二人の作家を理解する貴重な書であった。早乙女貢は師の山本周五郎が没した3年後からこの鎮魂の書ともいうべきライフワークが始める。「会津士魂」は1970年から18年かけて「歴史読本」に連載し、62歳で7000枚13巻の長編として完結し、吉川英治文学賞を受賞する。その後、「続会津士魂」8巻も書き、2001年に33年間の歳月を費やして75歳でついに完結する。周五郎は「書かずにいられないもの」があるなら、どんな偉大な作者も及ばない独自の価値があると語っている。早乙女の場合、それが「会津」だった。早乙女貢は、敗者の側から歴史を丹念に検証していった。それを支えたのは怨念であった。

2020-01-26 山本周五郎は20代の前半4年間を帝国興信所(帝国データバンクの前身)で過ごしている。

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