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「名言との対話」5月22日。川端実「一生働かず稼がずに、絵だけを描いていけるのなら良し、ダメなら絵描きになるな」

川端 実(かわばた みのる、 1911年5月22日 - 2001年6月29日)は、日本の洋画家

東京都文京区小石川生まれ。祖父は明治期の日本画家である川端玉章、父も日本画家の川端茂章という美術家一家であった。享年90。

1934年、東京美術学校油画科卒業。1939年光風会会員。1950年多摩美術大学教授。1958年以降は、ニューヨークを拠点に抽象画家として活躍する。

2019年、世田谷文学館の『原田治展「かわいい」の発見」』をみたときに、川端実という名前を知った。原田治は「終始一貫してぼくがが考えた『可愛い』の表現方法は明るく、屈託が無く、健康的な表情であること。そこに5%ほどの淋しさや切なさを隠し味ように加味するというものでした」「イラストレーションが愛されるためには、どこか普遍的な要素、だれもがわかり、共有することができうる感情を主体とすることです。そういう要素のひとつであると思われる『かわいらしさ』を、ぼくは、この商品デザインの仕事の中で発見したような気がします」と語っていた。

「かわいい」の発明者のイラストレータ原田治は7歳から川端実に絵を習う。18歳の時、画家になりたいと相談するが、「一生働かず稼がずに、絵だけを描いていけるのなら良し、ダメなら絵描きになるな」と言われ、画家の道をあきらめる。

多摩美大のデザイン科に進学し、卒業すると川端先生の住むニューヨークの近くにアパートを借りて指導を受ける。原田は「コスモポリタンである川端実が、ニューヨークの地で次第に東洋の、それも日本民族古来の美意識に近づいてゆくの見るのは感動的なことでした」と書いている。

1975年には、神奈川県立近代美術館で川端の回顧展が催されている。「日本を離れ、日本の画壇からもあえて遠ざかり、それでいて大きな曲線を描いて民族的な日本の美意識に回帰してゆく」という説明であった。抽象画家として国際的評価の高かった川端実は、「日本への回帰」を果たしたということになる。

さて、弟子の原田はどうなったか。2006年刊行の『ぼくの美術手帳』を書くと、本人の心に急激な変化が起こったのである。「若い頃に一度はあきらめていた画家への志望、純粋絵画をこの手で再び描きたいという強い欲求が頭をもたげはじめました」。仕事と都会から離れて完全な孤独の時間を確保するために、太平洋上に浮かぶ島に真白な箱型の「アトリエ」をつくっている。この島はどこか。調べたが、秘密の壁が高くてなかなかわからなかった。

18歳の時、画家になろうと川端に相談するが、「一生働かず稼がずに、絵だけを描いていけるのなら良し、ダメなら絵描きになるな」と言われ、画家の道をあきらめ、多摩美大のデザイン科に進学する。その後、幸運にも恵まれ、イラストレータになり、多忙をきわめるのだが、少年時代の夢は60歳になって実現する。2006年の還暦後は1年の半分をこのアトリエで抽象画を描くことに費やした。

あくせく働かずに生活できる経済基盤が整ったときに、川端先生の言葉を思い出し、「絵描きになろう」としたのであろう。原田にとって、川端は生涯の師匠であった。

原田は亡くなるまでの10年間は、2005年元旦から始めたブログ「原田ノート」を亡くなる5日前まで833回書いている。

師匠の川端実は「日本」へ回帰し、弟子の原田治は、「自分」への回帰を果たしたのだ。

久恒啓一 (id:k-hisatune) 1日前


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