1月5日。長井勝一「商業誌なのにもうける気はなく、原稿料さえろくに払えない。それでも根っからの漫画好きが集まって、ここまで来た。やめたくてもやめさせてもらえなくてね」

長井 勝一(ながい かついち、1921年4月14日 - 1996年1月5日)は、日本の編集者、実業家である。青林堂の創業者であり、漫画雑誌 『月刊漫画ガロ』の初代編集長。

長井は東京オリンピックの行われた1964年(昭和39年)に伝説の漫画雑誌『ガロ』を創刊する。長井によれば白土三平に既製の商業誌では不可能な大長編「カムイ伝」を発表してもらうために創刊したが、この雑誌からは漫画文化の創世記を担った漫画家やイラストレータなどが多数輩出する。南伸坊、水木しげる、林静一、赤瀬川源平、渡辺和博、荒き経惟、中島らも、、、。「ガロ」は全共闘世代に熱い支持を受けた。

宮城県 塩竈市駅前の生涯学習センターふれあいエスプ塩竈の中にある長井勝一漫画美術館を訪問した。以下、ガロで育った漫画家たちの長井評。彼らが語る人物像が親しかった人々の回想から浮かんでくる。

矢口高雄「農民が主人公の作品(カムイ伝)には驚いた。ガロで世の中の仕組み、差別などを知った」。水木しげる「長井さんは漫画好きというより、漫画家好きな人だった」。永島慎二「人間をみつめた人だった」。 鶴見俊輔「もしガロがなかったら、もしガロに私が出合うことがなかったら、私は今とかなり違っていただろう。それほどに影響を受けた」。唐十郎「20代の頃からガロを読んでいた。小説よりも劇画の方が、はるかに現代を伝えていたからだ」。石ノ森章太郎「ガロはワレワレCOM族にとっては宿敵だった」(COMは手塚治虫が主宰)。菅野修「ガロから生れた作家には、素晴らしい才能を感じます。どうしてガロだけに集結されるのでしょうか?多分、永井さんの魔力のおかげだと思います」。四方田犬彦「ガロというのは永遠にマイナーな位置にあるわけですよ。ガロに入門し卒業した人は、次々とメジャーになってゆく。けれども本誌そのものは、どこ吹く風とばかりにいつまでもマイナな、アンダーグラウンドな位置に留まり続ける。これは今日の東京の大衆消費社会では稀有な、というより唯一の文化現象のような気がしますね」。南伸坊「長井さんは、才能の見際めっていうか、見出し方っていうのがボクなんかより、ズッと、頭柔らかいと思いましたね」。永島慎二「さまざまな時代を経て、時と共に、これほど内面的に大きくなっていった人は珍しい、と思う」。

長井は漫画産業の内弟子制度から脱却するために「新人漫画家投稿募集!」という新人発掘のやり方を発明した。金がなかったことがこのような智恵を生み出した要因でもあった。 っこの伝説の漫画誌は、私は読まなかったが、学生時代からまわりの感度の高い友人たちが「カムイ伝」などを熱心に読んでいた記憶がある。全共闘世代も主人公たちの生き方や言葉に大いに影響を受けた雑誌だったのだ。長井は一つの時代を創った。

長井勝一が創刊した漫画雑誌『ガロ』は漫画人たちを生んだ優れたインフラだったと思う。後に大家になっていく漫画家たちはそのインフラで思う存分に才能を開花させた。一番偉かったのはそういう漫画雑誌「ガロ」を創刊し維持し続けた長井勝一だったのではないだろうか。やめたくてもやめられなくなってしまったと本人が述懐しているように、インフラによってコンテンツが花開き、コンテンツの隆盛によってインフラの価値がさらに高まっていくという好循環。この構図はいつの時代も変わらない。

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