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「名言との対話」9月1日。竹久夢二「芸術はもう沢山だ。ほんとに人間としての悲しみを知る画かきが出ても好いと思ふ」

竹久 夢二(たけひさ ゆめじ、1884年明治17年〉9月16日 - 1934年昭和9年〉9月1日)は、日本画家詩人

「私は詩人になりたいと思った。けれど、私の詩稿はパンの代りいはなりませぬでした。ある時、私は文字の代りに絵の形式で詩を画いてみた。それが意外にもある雑誌に発表せらるることになったので、臆病な私の心は狂喜した」。ここから夢二は出発する。

2012年に竹久夢二伊香保記念館を訪問した。竹久夢二は、不思議な魅力に満ちている。
夢二は職人の仕事として蔑まれた図案、デザインの分野に力を発揮した商業デザイナーとして多くの仕事を残している。
1923年に旗上げを計画した「どんたく図案社」は、図案、文案、美術装飾のすべて引き受けようとしていた。ポスター、レッテル、包装、チラシ、カード、新聞・雑誌広告、看板、飾窓、舞台装置などを行うつもりだった。しかしこの計画はこの年の9月1日の関東大震災で挫折する。この震災時には、連日焼跡をスケッチしている。

「絵は、僕の命だもの」という夢二の仕事量は半端なものではない。実に幅広く活躍している。新聞・雑誌は2,447点。そのうち表紙を描いたものは394点、口絵を描いたものは319点。コマ絵、挿絵は5492点。文章は805篇。詩346編。歌433首。俳句347句。

竹久夢二伊香保記念館では本格的なオルゴール演奏を聴かせてくれる。スイス、アメリカ、ドイツ製の本格的な音色である。「埴生の宿」や「庭の千草」などの演奏を聴いたが、これらが夢二の作詞だった。 榛名山をバックに、赤い着物を着た女性が大きく描かれている「榛名山賦」に強い印象を受けた。

ふり返ってみると、夢二の美術館や作品に触れることも多かった。2005年に根津の竹久夢二美術館を訪問した。そして2021年に再訪。弥生美術館、中廊下でつながっている竹久夢二美術館を訪問。竹久夢二美術館では「30のキーワードでひもとく竹久夢二展」。弥生美術館では「谷崎潤一郎をめぐる人々と着物」展をみた。

2017年には岡山の夢路郷土美術館を訪問している。竹久夢二の絵は、夢二が泊まった会津のホテルでも観たし、旅館の中に夢二の絵を展示している旅館もいくつか記憶にある。

「芸術はもうたくさんだ。ほんとに人間としての悲しみを知る画かきが出てきても好いと思ふ」と考えた夢二は「芸術は壁に飾るものではなく、人の生活にとり入れてはじめて生きるもの」とし、45歳の時に伊香保の先の榛名山美術研究所を構想する。これは「手による産業」としての工芸運動という壮大なものだった。絵画、木工、陶工、染織など日常生活に必要なものを制作し、美術を生活の中に活かそうとする試みだった。多くの賛同者を得たのだが、突然の外遊と病によって途絶えしまったのは惜しまれる。

竹久夢二は人形制作にまで手を伸ばしており、「雛による展覧会」も開いたが、そのポスターの背景に記した言葉が興味深かった。「色彩・線条・交響・立体・平面・時間・詩」、そして「古代・近代・未来を超ゆるもの」とある。夢二の目指したキーワードだろう。竹久夢には総合芸術であった。

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