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「名言との対話」5月16日。溝口健二「監督がなぜ監督かというと、シナリオも含めてすべてを監督しているからなんです」

溝口 健二(みぞぐち けんじ、1898年明治31年〉5月16日 - 1956年昭和31年〉8月24日)は、日本映画監督である。

東京生まれ。中学進学を断念させられ、画塾に入ったり、職業を転々としたが、1920年日活に俳優志望で入社する。他社からの俳優、監督などの引き抜き騒動があり手薄になったこともあり、助手から一気に監督に抜擢される。『愛に甦へる日』 (1923) 、『紙人形春の囁き』 (1926) 、『都会交響楽』 (1929) などを監督する。

『滝の白糸』 『浪華悲歌』 、『祇園の姉妹』 などの女性描写の傑作を生む。第2次世界大戦中は、芸道物や歴史物を作った。戦後は、次々と傑作を発表する。『夜の女たち』 、『西鶴一代女』 、『雨月物語』 、『山椒太夫』、『近松物語』 など、生涯で92の作品を発表した。

1950年代には、ヴェネツィア国際映画祭で3年連続で受賞するなど、小津安二郎黒澤明と並び、国際的に評価の高い監督である。

溝口監督の作品はみていないが、その名声は聞いていた。いずれ映画をみることにしたいが、今回は佐相勉『溝口健二の映画 1923年・日活時代』を読んでみた。1923年に公開された10作品を丹念に追った溝口映画の解説書である。

溝口は、引き抜きで手薄になったことから24歳の若さで監督に抜擢された。デビュー作品は『活動映画』で上半期優秀映画灯標で6位にランクされた。3作目は「気分表現に筋の取扱ひに、近来にない入念な努力を見出し得る」(池田重近)と評価されている。第5作までは基本的には日活の路線を継承したものだった。

その後は、「活劇」を試みたり、表現主義映画に挑んだり、トーキーへの第一歩を記すなどしていく。常に異色の作品をつくろうとする姿勢があった。冒険と勇気が溝口監督の特色だった。なにごとも面白がって進んでいく。新しいものへの好奇心と関心は監督家業の中でずっと続いていく。クローズアップやカッティングにも腕をあげていった溝口監督は関東大震災時には「震災映画」にも手を染めている。

溝口は脚本家には「人間の体臭が匂うように」描いて欲しいと注文している。社会や男性によって苦労する女性を描くのは天下一品だった。

溝口は時流や流行に敏感であると同時に、完全主義者だった。脚本家には何度も書き直させている。俳優には「やってみせてください」といいうだけで、どうしたらいいかと聞くと「それはあなたが考えてください。あなたは役者でしょう」といって受けつけない。溝口はいう。「「ハッとする」と書くとハッとした顔をするんです、役者が。人間がただハッとするわけがない。なぜハッとするのか。悲しいのか、恐ろしい中に喜びがまじっているのか。全部裏表があってそのバランスが崩れるところに演技の血や艶というものがあるんです」「やはり芸というものは大変なもので、ひっぱったかれなけりゃできやしない」。そのため、サディスト、暴君、ゴテ健などと呼ばれていたが、溝口が使い、慕う脚本家、俳優などは、しだいに「溝口組」と呼ばれるようになった。その一人が、脚本から監督として大成した新藤兼人である。

「監督がなぜ監督かというと、シナリオも含めてすべてを監督しているからなんです」という溝口健二の言葉は本当かも知れない。これくらいの気構えがないと巨匠と呼ばれるまでにはならないのだろう。


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