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「名言との対話」2月22日。柳原白蓮「踏絵もてためさるる日の来しごとも歌反故(ほご)いだき立てる火の前」

柳原 白蓮(やなぎわら びゃくれん、1885年(明治18年)10月15日 - 1967年(昭和42年)2月22日)は、大正から昭和時代にかけての歌人
柳原前光伯爵の次女。15歳で結婚し、一子をもうけるも破婚。その後に東洋英和女学校編入学し、村岡花子らと交流。佐々木信綱に師事し、短歌の道を志す。25歳年上の福岡の炭鉱王と再婚。帝大生・宮崎龍介と恋に落ち、夫への絶縁状を新聞に発表し、出奔するという「白蓮事件」を起こす。龍介との結婚後は、文筆活動、平和運動にかかわる。また、龍介の政治活動、アジア諸国との交流も支える。
『白蓮自叙伝 荊棘の実 柳原白蓮』は、龍介に出合うまでの日々を小説にした著書だ。43歳の時の作品。事実をそのままに写しだすのは困難な面があり、「それゆえにこれを小説体に綴ることにしました」。どこからどこまでが本当だか、作り話だかわからないようにしている。
この445ぺーじに及ぶ大著には、貴族社会のしきたりなどが詳しく書かれており興味深い。関係した人たちとのやりとり、感情の起伏などが細かに記されている。最後の「天国か地獄か?」の章では、「一人の青年宮川を知った。彼は口に貴族を蔑んだ。富豪を罵った。そして今日に飢えている多くの貧しき人々のために、この身を捧げるのだともいった。澄子の胸にはいつしか宮川の俤がしきりに動いていた」とある。宮川、本名・宮崎龍介は白蓮より7つ年下である。2011年に訪問した熊本県荒尾市宮崎滔天ら兄弟の資料館では、近代日中交流史の原点ともいえる宮崎兄弟の生家を復元しており、宮崎兄弟資料館がその一角にある。八郎、民蔵、弥蔵、寅蔵。末子の寅蔵が、宮崎滔天で、孫文を助けた。滔天がいなければ辛亥革命はならなかった。この龍介は中国革命を実現した孫文を助けた宮崎滔天の長男である。白蓮36歳、龍介29歳。この当時、この不倫騒動は大いに世間を騒がせた。その後、白蓮は81歳で天寿を全うするまで龍介と仲むつまじく暮らしている。
「ゆくにあらず帰るにあらず居るにあらで生けるかこの身死せるかこの身」
2014年のNHK連続テレビ小説花子とアン』は、『赤毛のアン』の翻訳者の村岡花子の半生を描いた作品で私もよくみた。平均視聴率22.6%は、大ヒットした『あまちゃん』『梅ちゃん先生』を超える人気となった。この中で仲間由紀恵が演じたのが柳原白蓮だった。第82回「ザテレビジョンドラマアカデミー賞」で村岡花子を演じた吉高百合子は主演女優賞、仲間由紀恵助演女優賞を受賞している。この番組をみていたおかげで、白蓮のことを多少知っていたので、自叙伝も興味深く読んだ。
以下、白蓮の歌から。
我歌のよきもあしきものたまはぬ歌知らぬ君に何を語らむ
天地(あめつち)の一大事なりわが胸の秘密の扉誰か開きぬ
思ひきや月も流転のかげぞかしわがこし方に何をなげかむ
ああけふも嬉しやかくて生(いき)の身のわがふみたつ大地はめぐる
子をもてば恋もなみだも忘れたれああ窓にさす小さなる月
女とて一度得たる憤り媚に黄金に代へらるべきか
そこひなき闇にかがやく星のごとわれの命をわがうちに見つ
「ゆくにあらず帰るにあらず居るにあらで生けるかこの身死せるかこの身」と境遇を語り、そして「踏絵もてためさるる日の来しごとも歌反故(ほご)いだき立てる火の前」と火のに飛び込まんとする心境。自叙伝を手伝った村岡花子の「数奇をきわめた一女性の半生の物語」、ひいては生涯のドラマは、歌を並べることで輝いていく。歌の力は大きいと改めて感じた。


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