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9月19日。 中内功「若い会社というのは、たいがい、いかがわしいもんや。それでええんや。おまえら、もっといかがわしくなれ!」

中内 㓛(なかうち いさお、1922年〈大正11年〉8月2日 - 2005年〈平成17年〉9月19日)は、日本の実業家。ダイエーを創業し、会長・社長・グループCEOを務める。日本チェーンストア協会会長、日本経済団体連合会副会長、自身が設立した学校法人中内学園(流通科学大学)学園長、理事長、財団法人中内育英会理事長を歴任した。

1945年8月投降後、マニラの捕虜収容所を経て11月に奇跡的に生還する。中内が流通革命を実現させた背景には、アメリカの豊かさを垣間見た従軍体験があった。「人の幸せとは、まず、物質的な豊かさを満たすことです」との信念は、そこで生まれた。

1957年、主婦の店「ダイエー薬局」(ダイエー1号店)を開店。物価の国家統制の残滓を打ち破る「価格破壊」路線は喝采を浴びた。それは価格の決定権を消費者に取り返すことだった。ダイエー・松下戦争、ダイエー・花王戦争などを経て、1972年には三越を抜き、小売業のトップになる。1980年には1兆円を売り上げる。リクルート、忠実屋、ユニードなどの買収、福岡ダイエーホークスの誕生、流通科学大学の創立など天下を圧する勢いで走り、1991年には経団連副会長に就任する。しかしバブル崩壊のあたりから「消費者が見えんようになった」と中内は言うようになり、ダイエーは凋落を始める。2001年に退任。「ネアカ、のびのび、へこたれず」を座右の銘とした一代の風雲児は2005年に83歳で没した。

「売り上げだけが日本一というのではあまり意味がない。それは手段であって本当の目的はそれを通して新しいシステムを作ることだ」「15分で役員会を説得できない事業なら、やってはいけない」「変化こそ、機会の母である」

200年代の初頭に、大阪の国立民族学博物館に館長の梅棹忠夫先生を訪ねたとき、企画展を巡っていたら、中内功を見かけた。後で梅棹先生にそのことを伝えると「寄ってくれたらいいのに」と会えなかったことを残念がっていた。晩年の中内は、自宅をはじめ全ての財産を奪われ、自らが建てた大学の理事としての収入数十万で生活していたというから、会わせる顔がなかったのだろうか。また、テレビで藤山寛美と対談を見たことがあるが、自分の意見を押し通す中内と、人情路線の寛美はかみ合っていなかった。

冒頭の言葉は苦境にあったリクルートでの講演の時の言葉である。新しいことをやる人は、何かいかがわしさがある。新しい分野、誰もやらなかった領域、そういう所に次の時代が待機している。いかがわしさを持ち続けよ、それが「時代の先を行く者は必ず石をぶつけられる。イエス・キリストだってそうだ。私は流通革命というはりつけにあって、常に石をぶつけられてきた」と述懐した革命家の遺言である。

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