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8月4日。 渥美清「何というかな。ああ生まれてきて良かった、そう思うことが何べんかあるだろう。そのために生きてんじゃねえか。そのうちお前にもそういう時が来るよ、な?まあ、がんばれ。」

渥美 清(あつみ きよし、1928年(昭和3年)3月10日 - 1996年(平成8年)8月4日)は、日本のコメディアン、俳優。

工員、担ぎ屋、テキ屋、旅回り一座員、コメディアンなどを経て、テレビデビュー。盗みで補導されたときに刑事から「お前の顔は個性が強すぎて、一度見たら忘れられない。その顔を生かして、犯罪者になるより役者になれ」と言われた。それが俳優になるきっかけだった。

1968年にテレビドラマ『男はつらいよ』が放送開始され、松竹で映画になり大ヒットする。山田洋次監督の映画『男はつらいよ』シリーズでは、車寅次郎(フーテンの寅)役で27年間48作品で主役を演じた。これは次第に国民的映画になっていった。映画のシリーズでは最多記録の作品としてギネスブックにも載った。

没後に国民栄誉賞を受賞。『男はつらいよ』シリーズを通じて人情味豊かな演技で広く国民に喜びと潤いを与えたことが受賞理由だ。俳優としては長谷川一夫に次いで二人目。いかにファンが多かったかがわかる。私の家族でも、母、弟、息子と三代にわたって「寅さん」大のファンだ。

2000年に発表された『キネマ旬報』の「20世紀の映画スター・男優編」で日本男優の9位、同号の「読者が選んだ20世紀の映画スター男優」では第4位になった。さらに、「映画館をいっぱいにしたマネーメイキング・スターは誰だ!」日本編では第1位。

山田洋次は渥美の頭脳の良さを指して「天才だった」と語っている。特に記憶力に関しては驚異的なものがあり、台本を2、3度読むだけで完璧にセリフが頭に入ってしまったと証言している。

私の「人物記念館の旅」で寅さんと出会ったことを思いしてみる。2007年、山田洋次監督と渥美清の資料の揃ったややバタ臭い「小諸寅さん記念館」を訪問。 2013年、葛飾柴又の山田洋次ミュージアムとペアになっている「寅さん記念館を訪問。寅さんは1934年生れという想定だ。歴代のマドンナたちの懐かしい写真が並んでいる。渥美は「私という独楽が山田さんという独楽にぶつかって勢いよく転がりはじめたような気がします」と語っている。2016年、銀座1丁目の松竹スクエア3階の演劇・映画専門図書館「松竹大谷図書館」を訪問した時、ミニ展示は「渥美清−−没後20年」展だった。「風天」の俳号を持っていた渥美清には、「お遍路が一列に行く虹の中」などの作品がある。

渥美清は名優として評価が高かったのだが、どの作品も「寅さん」を超えることはできなかった。映画での役とは違って、渥美は私生活を秘匿し、他者との交わりを避ける孤独な人物だったのは意外だ。私生活を徹底的に秘匿していた。それは、「渥美清=寅さん」のイメージを壊さないためであった、という。あまりに偉大な作品があると、それを超えられない苦しみもあるのだ。1991年に肝臓癌が見つかり、1994年には肺に転移。亡くなる直前まで出演した48作目「男はつらいよ 寅次郎紅の花が遺作となった」。享年68。

「そうよ、仕事ってのはね、何しても、楽なものってのはないんだよ、うん」「いいかあ、人間、額に汗して、油にまみれて、地道に暮らさなきゃいけねえ。そこに早く気が付かなきゃいけねえんだ」、、。

寅さんが映画の中で吐く言葉は、自分のことを棚にあげておりおかしみもあるのだが、人生や仕事の達人を思わせる名言が多く、妙に説得力がある。映画の中でこういった言葉を聞けるのも嬉しく思うファンが多いのだろう。「何のために生きているのか」という問いへの答えは難しいが、寅さんのこの答えは、心にしみじみと響いてくる。

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