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「名言との対話」1月24日。松村謙三「隻手妖気を払う」

松村 謙三(まつむら けんぞう、1883年〈明治16年〉1月24日 - 1971年〈昭和46年〉8月21日)は、昭和日本の政治家。88歳で永眠。

富山県出身。早大卒。報知新聞記者、富山県議を経て1928年衆院議員。第2次大戦中大政翼賛会政調会長、戦後東久邇内閣厚相兼文相、幣原内閣農相。公職追放をうけたが1951年解除。1953年改進党幹事長、1954年日本民主党結党に参加、1955年文相。1959年自由民主党総裁に立候補したが敗れ、以後反主流を貫く。
日中国交回復に努力、1962年以降しばしば訪中。とくに日中貿易(日中覚書貿易)に大きな役割を果たした。1969年政界を退くまで衆院当選13回。(出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて) 

佐高信『正言は反のごとし 二人の謙三』(講談社文庫)を読んだ。二人とは清廉の政治家であった松村謙三と、18歳年下の河野謙三である。どちらも保守党内の少数派であり、息子を後継者にしなかったことが共通している。この本のエピローグの中で、人物論の名手、あるいは狙撃手である佐高信はエッセイストの青木雨彦の「子どもに継がせることに熱心な職業もある」、それは「政治家と医師と芸能人」という言葉を紹介している。私も青木の慧眼に感服した。

「正言は反のごとし」とは、反対を唱えているようにみえる言説は、実は正論なのだという意味だろう。中国に対する反対論、警戒論が多い中、批判を恐れず日中関係の改善に骨を折った政治家としてあがるのは、まず高碕達之助と松村謙三である。この二人の信用によって、辛うじて今も日中関係の糸がつながっているのである。

以下、松村謙三の言葉。

批判のない政治は堕落だ。
民主政治は英雄の政治ではない。平凡な政治、誤りのない政治、清潔な政治だ。
隻手妖気を払う。
やむをえない環境にあったにせよ、1人になっても軍部に抵抗して所信を貫けなかったことは自分の生涯に汚点を残した。
「愛憎英雄の跡を誤らんことを祈る 一穂の寒灯此の心を知るあり」。人間の愛と憎しみ。それは英雄の末路を誤らしめることがあるが、私はそれを恐れる。畑の中に見える小さな灯火には、私のこの心がわかるであろう。
絶対に闇米を買うな。配給で我慢してくれ。正しい政治を行うには、まず、自らが正しい生き方をしなければならない。父を助けると思って、闇米を買わないでくれ。

二人の謙三は退き方もきれいだった。松村は郷党の支持が強く引退は容易ではなかったが、86歳で惜しまれながら自ら引退する。河野は衆院議長3選の誘惑を断って議長の座を自ら降りている。

幕末の傑人・河井継之助は「人というものが世にあるうち、もっとも大切なのは出処進退の四字でございます。そのうち進むと出づるは人の助けを要さねばならないが、処ると退くは、人の力をかりずともよく、自分でできるもの」と「出処進退」の心構えを語った。その伝統の中に二人はいたのである。私もそれを意識して生きてきたので二人の生き方に共感する。

松村は『三代回顧録』の序文で、「生を受けて80年、私は慈悲深き父母に育てられ成長し、学窓にあってはよき師、よき友に恵まれた。社会人となっては、よき先輩の指導、友人の交誼に接し、今これらの人を思い出す時、私の人生はこの上なく幸福であった」と生涯を回顧している。やはり引き際の良さが、この幸福感を招いたのだろうと思う。

松村には多くの名言があるが、今回は「隻手妖気を払う」を採りたい。弱い力しかない片手でも、妖気漂う空気を払いのける決意を示している。少数派、反主流を貫いた「正言」の人らしい勇気ある心意気に感銘を受けた。

この本では、もう一人の謙三、河野謙三にも興味を持った。調べよう。

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