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「名言との対話」3月9日。梅原龍三郎「葬式の類は一切無用のこと。弔問、供物の類はすべて固辞すること。生者は死者のためにわずらわさるべきにあらず」

梅原 龍三郎(うめはら りゅうざぶろう、1888年(明治21年)3月9日 - 1986年(昭和61年)1月16日)は、日本の洋画家。享年97。

京都市下京区生まれ。1906年創設の関西美術院を通じ安井曽太郎とともに浅井忠の指導を受ける。同年20歳で渡仏。作品に接し感動した国民的画家・ルノワール(1841‐1919)を、翌1907年に訪れた。その時「さあさあ奮発せん。私は彼に見られるに値する。私は彼の芸術をあまりに愛する。彼はそれを知らねばならぬ」と自身を励ましている。5年間の留学中、南フランスのルノワールの自宅・アトリエを訪問し親しくなり、世界的巨匠に学ぶという得がたい経験をする。

そして帰国後も梅原は日本にルノワールを紹介し、またルノワールと手紙のやりとりを続けている。37歳の年齢差であったルノワールと梅原の師弟関係は、魂の触れあった美しいものであった。1911年、ピカソのアトリエも訪問している。

帰国後も梅原は日本にルノワールを紹介し、またルノワールと手紙のやりとりを続けている。二人の年齢差は37歳だった。

梅原は東洋(桃山・琳派・南画など日本の伝統)と、西洋(油彩画)の融合を目指し、絢爛な色彩と豪放なタッチで装飾的な独自の画境を拓き、日本洋画界の重鎮となった。

1952年、安井曾太郎と同時に東京美術学校を退官。文化勲章を受章。写実主義の安井と梅原の活躍した時代は、安井・梅原時代と呼ばれた。

「個性がないと絵もそれを見る人間の目を引かない。個性を出した絵でないと人を打たぬし売れもしない。とはいっても、私はどんな小さな作品でも商品だと思って描いてはいないけどね」

2016年、三菱一号館美術館で開催中の「拝啓 ルノワール先生」展を観てきた。この企画展はそういったルノワールと梅原龍三郎の交流を紹介したものであり、魂の触れあった美しいして関係を知ることができる。以下、ルノワールが梅原に語った言葉。

「君は色彩を持つ、デッサンは勉強で補うことが出来るものだが、色彩はタンペランマン(体質)によるものだ、それのあるのが甚だいい。」

「何でも手当たり次第に写生せよ、、5分間を失わずかけ、、、、そして時々美術館に行け、、少し模写を試みることもよい」

「画を成すものは手でない。眼だ、自然をよくご覧なさい、、、。」
「人は富むに従って不幸になるものだ」

2006年に訪ねた岩手県花巻の高村光太郎記念館では梅原の弔辞をみつけた。「常に身だしなみよくきちんとしていて英リス紳士の様であった。酒は強くアブサントをよく独りで飲んでいたらしい。稀にしか君に会わなかったが、常に第一列の友人と思って敬愛していた」と友人の死を悼んでいる。

本居宣長は葬儀や墓について実に細かく指示を出していた。一方で若い頃から「知的生産の技術」研究会で40年にわたりご指導いただいた八木哲郎さんは、葬式、お墓など一切必要ないとして、旅立ってしまった。

梅原龍三郎は97歳という長寿だったのだが、没後自筆の遺言状が明らかにされ、「葬式無用弔問固辞する事 梅原龍三郎 生者は死者の為に煩わさるべからず」とあった。家族だけの葬儀ですますことを遺言した偉人はいるが、その理由まで記した人は多くない。遺言における葬儀の指示には、その人の人生観があらわれる。


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