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「名言との対話」6月04日。諸橋轍次「無理をしない」

諸橋轍次(1883年6月4日 - 1982年12月8日)は、漢字の研究者で『大漢和辞典』を完成させた。

新潟県三条市生まれ。諸橋は小学校の代用教員、師範学校を出て、東京高等師範学校の国語漢文科に入学し漢文を学んだ。卒業後、群馬県師範の教諭から高師付属中学で教鞭をとり、27歳から35歳まで教師生活を送る。

37歳、文部省から2年間の中国留学を命ぜられる。経費は岩崎小弥太や渋沢栄一が面倒をみている。帰国後は、岩崎から静嘉堂文庫長を委嘱される。そして東京高師、国学院大学講師になり、5年後には大東文化学院教授となる。1929年、文学 博士 の 学位 をさずけられ、同じ年に創設された東京 文理科大学 の 助教授 になり、翌年には 教授 となった。都留文科大学初代学長。

1929年、大修館の鈴木一平は「先生、わたくし、大 修 館 の 運命 をかけて、先生のおっしゃるような 漢和辞典を出版することに心をきめました」と語る。この時、諸橋轍次45 歳、鈴木一平は41歳だった。諸橋は杉並 の山林の中に家をかりて事務所をうつした。そこを、『 遠 人 村 舎』とし命名して、大漢和のための仕事場とする。人を遠ざけて仕事に没頭する決意をしめした。
諸橋が 東京文理科大学 および 東京高等師範学校の教授を退官 してたのは 終戦 の1940年秋で、63歳 。それからは心おきなく 大漢和 の仕事に没頭する。

途中様々のことが起こる。火事でそれまでにでてきていた組版、10トンの大型トラック10台分が灰になったり、他の出版社からの刊行の申し出もあったが、2人の結束は変わらなかった。

そして、「大漢和辞典」は1955年第一巻配本、5年後に最終の第13巻総索引が刊行された。開始以来35年の歳月と、のべ25万8千人の労力と、9億円(時価換算)の巨費を投じた大出版であった。また諸橋が遺嘱した補巻刊行の2000年まで75年。まさに近代有数の一大プロジェクトであった。

諸橋は1944年に朝日文化賞、1955年に紫綬褒章、1965年には文化勲章、勲一等瑞宝章。刊行した大修館の鈴木一平は1957年に菊池寛賞、勲四等瑞宝章などを受賞。この大プロジェクトへのきわめて高い評価をうかがうことができる。

三浦しをん舟を編む』という小説を読んだことがあり、映画も観ている。15年の歳月をかけて「大渡海」という辞書が完成したとき、壮大なプロジェクトを一緒に戦った仲間たちは、「俺たちは舟を編んだ。太古から未来へと綿々とつながるひとの魂を乗せ、豊穣なる言葉の大海をゆく舟を。」と振り返る。素晴らしい物語だった。辞書の編集という一大事業の苦難と栄光を垣間見ることができた。

さて冒頭の「無理をしない」である。このような事業は無理をしないと完成までにはこぎ着けないのではないかと思うが、さに非ず。辞書の編集という事業は根気と体力を要する仕事であり、諸橋自身も肺炎、肋膜炎、百日咳、白内障、そして失明同然になっていく。そういう健康状態の中で、使命感にかられながらも、無理をしないで長期戦、持久戦でライフワークに挑んだのである。

諸橋の徹次の牛の歩みは、さらに続く。『新漢和辞典』13巻、『新漢和辞典』、『中国古典名言事典』、『広漢和辞典』という仕事を完成させている。文化勲章の栄誉に輝いた『大漢和辞典』がライフワークではなかった。真のライフワークは「辞典」の編纂であったのだ。

「無理をしない」で、為すべき仕事を継続していった。99歳という長寿と、その間になした偉大な業績は、それが正しかったことをうかがわせる。

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