「名言との対話」12月19日。藤山雷太「井戸塀政治家」
藤山 雷太(ふじやま らいた、1863年9月13日(文久3年8月1日)- 1938年(昭和13年)12月19日)は、明治・大正・昭和の実業家、貴族院勅選議員。
佐賀県出身。庭の大樹に雷が落ちた日に生まれたことから雷太と名付けられた。長崎師範・慶応義塾卒業後、県議会議員となる。1892年に福沢諭吉の紹介で三井銀行に入り、縁戚となった中上川彦次郎を助けて三井財閥の改革にあたる。芝浦製作所所長に就任、次に王子製紙会社の実力者となる。中上川の死後、益田孝が実権を握り三井を去る。東京市街電鉄・日本火災・帝国劇場の創立に参加した。渋沢栄一に乞われて日糖疑獄後の大日本製糖の社長に就任して2年で再建するなど活躍し、「藤山コンツェルン」を築き上「製糖王」とも呼ばれる。1923年貴族院勅選議員。東京商業会議所会頭を務めた。そして日本商工会議所の初代会頭となった。全国の商工会議所を束ねるのはが日本商工会議所である。日本の商工会議所数は515カ所(2016年4月現在)。全国の商工会議所の会員数125万(2023年4月現在)。初代会頭は藤山雷太で、その後、結城豊太郎、藤山愛一郎、永野重雄、石川六郎など実業界の大物の名前が並んでいる。現在は小林健会頭(三菱商事)。
2013年に慶應日吉キャンパスを訪ねた。横浜線中山で乗り換えてセンター駅北にある企業での講演した後、近所に記念館はないかと探したら慶応義塾大学日吉キャンパスにいくつか名前を冠した建物が見つかった。その一つが藤山記念館だ。藤山とは藤山雷太のこと。以前は図書館だったが、現在は理工系学部の学生たちの自習施設になっている。藤山雷太に関する資料は館内にはなかった。
「藤山雷太君像」と書かれた銅像の碑文は藤山雷太本人の撰。「藤山工業図書館由来記」は、「50余年工業に尽くしてきた。銀行・鉄道・保険・信託などの事業もやったが、主として芝浦製作所、王子製紙、大日本精糖という工業会社を運営してきた。工業報国の志はこれでやむものではない。工業図書館を建設する計画を大正4年に作ったが、欧州の戦乱、関東大震災などのため遅れ、昭和2年に落成した」という内容だ。銅像は藤山愛一郎が日吉キャンパスに図書館を寄贈した時のものである。慶應の構内では福沢諭吉以外の銅像は藤山雷太のみだそうだ。
長男は藤山愛一郎。「銀の匙」と言われた藤山愛一郎のことは記憶にある。その政治資金は雷太が築いたものだったのだ。愛一郎は財界で活躍した後、岸信介内閣の外相として政治の世界に入る。そして何度も総裁選に出馬するが果たせなかった。この辺りのことは、私も新聞でよく読んでいた。私財を使い果たして、藤山コンツエルンはあえなく解体。箱根強羅の別荘は岡田茂が買い取った。それが神山荘である。「絹のハンカチ」は、雑巾になってしまった。
藤山コンェルンの莫大な資産を政治活動で失った藤山愛一郎は、最後の「井戸塀政治家」と言われる。元来、政治とは家産のある名望家が担った名誉職だった。国事に奔走して、私財を費やし、気がついたら残ったのは、井戸と塀だけ。そういう政治家を尊敬の念をこめて井戸塀政治家と呼んでいたのだ。
政治家への道が開放され、支えるシステムが整った結果、政治で飯を食う人びとだらけになってしまった。それが、腐敗の温床となった。今話題の自民党安倍派の裏金疑惑はその象徴である。井戸塀政治家という言葉は死語になった。藤山愛一郎は井戸塀政治家であったが、その尊称には「最後の」という言葉がついている。藤山雷太が一代で築いたコンツェルンは、長男の藤山愛一郎が一代でつぶした。そういう物語であった。
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