「名言との対話」4月17日。鈴木貫太郎「永遠の平和、永遠の平和」

鈴木 貫太郎(すずき かんたろう、1868年1月18日(慶応3年12月24日) - 1948年(昭和23年)4月17日)は、日本の海軍軍人、政治家。
海軍士官として海軍次官連合艦隊司令長官、海軍軍令部長などの顕職を歴任した。予備役編入後に侍従長に就任。二・二六事件では襲撃されるが気丈な妻・たかの機転で一命を取り留めている。

天皇機関説美濃部達吉が苦境にあった時、 昭和天皇自身は、ああいう学者を葬ることはすこぶる惜しいと語ったというから、天皇機関説に近かったと、侍従長であった鈴木貫太郎は後に述べている。

小磯國昭の後任として内閣総理大臣に就任し、陸軍の反対を押し切って、本土決戦を回避し、第二次世界大戦終戦に導き、国が滅ぶのを阻止した。

2015年に話題となった、戦後70年を記念した映画「日本の一番長い日」(半藤一利原作・原田真人監督)をみた。昭和天皇や鈴木内閣の閣僚たちが御前会議においてポツダム宣言を受け入れ日本の降伏を決定した1945年(昭和20年)8月14日の正午から宮城事件、そして国民に対してラジオ(日本放送協会)の玉音放送を通じてポツダム宣言の受諾を知らせる8月15日正午までの24時間を描いている。

関係者の年齢を調べたことがある。昭和天皇44歳。鈴木貫太郎首相77歳。阿南陸軍大臣58歳。木戸幸一内務大臣56歳。東郷茂徳外務大臣62歳。梅津美治郎参謀総長63歳。東条英機元首相60歳。米内光政海軍大臣65歳。映画では昭和天皇は木本雅弘、鈴木貫太郎首相は山崎勉、阿南陸相役所広司という配役だった。

鈴木内閣は1940年4月に誕生し、終戦という難題にあたって、天皇終戦の意志を拝し禁じ手の聖断を二度までも仰いだ。そうするしかできなかった世代の責任を痛感し、今後は若い人の時代であると退陣する。

「死ぬということは、最も容易な方法で、 なんでもないことだ」。いつでも身も、地位も捨てる覚悟で難局にあたった鈴木貫太郎の身の処し方を示している。敗戦の責任は身を捨てることではなく、復興を見届けることと考えていたのだ。

首相辞任の挨拶をしたときに天皇陛下から「鈴木、ありがとう、と言われて感激した」と息子にいつも語っていたという。

死の直前には「永遠の平和、永遠の平和」と非常にはっきりした声で二度繰り返したという。関宿町実相寺に葬られた遺灰の中には二・二六事件の時に受けた弾丸が混ざっていた。総理退任後に住んだ千葉県野田市の質素な家が記念館になっている。そこで永遠の平和のために尽力した鈴木貫太郎を偲びたい。

鈴木貫太郎の「正直に 腹を立てずに 撓まず励め」という遺訓は、母校である前橋市立桃井小学校の基本目標になっており、校歌の歌詞にも採用されている。

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