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「名言との対話」 5月29日。山際淳司「登場人物は年々変わっても、野球というゲームそのものは変わらない」

山際 淳司(やまぎわ じゅんじ【本名:犬塚 進(いぬづか すすむ)】、1948年7月29日 - 1995年5月29日)はノンフィクション作家・小説家・翻訳家。本名は犬塚進。

中央大学在学中に文筆活動を開始。1980年に発行された文藝春秋の『Sports Graphic Number』の創刊号に、山際淳司のペンネームで、『江夏の21球』というノンフィクションを執筆した。それが評判となりスポーツ・ノンフィクション作家としての地位を確立した。『江夏の21球』などを収録した作品集『スローカーブを、もう一球』で、1981年に第8回角川書店日本ノンフィクション賞を受賞した。

『江夏の21球』は話題になったから私も読んでいる。今回、ユーチューブで映像をみながら江夏自身の解説を聴いた。1979年日本シリーズ最終戦の9回無死満塁で、抑えれば優勝の場面だ。三振。スクイズはずしで三塁走者アウト。三振。古葉広島が西本近鉄に勝った。そのときの江夏の頭の中と心の中は興味深い。衣笠の声かけは「お前しかいないんだから」「なにかあたら、おれもユニフォームを脱ぐよ」だった。江夏は勇気をもらう。江夏が語った「ピッチングはつながりです」は名言だと思う。1球、2球、、とピッチャーは自分なりのストーリーを持って球を投げるのである。

『野球雲の見える日』を読んだが、驚いたことに 引退試合は多摩市営一本杉球場だった。多摩大への通勤路にあるあの球場か。日本における最後のマウンドで観客は1万6千人。江夏は阪神、南海、広島、日ハム、西武と5つのチームで、206勝158敗193セーブ。奪三振2987.防御率2.49。「江夏豊・たった一人の引退式」。『Sports Graphic Number』の文芸春秋社が主催した。どの球団も参加しなかった。ビートたけしのチームのリリーフとして投げた。それは草野球だったのだ。

山際淳司は、野球関係だけでも著作が多い。 『スローカーブを、もう一球』(角川書店, 1981年)。『阪神タイガース:プロ野球グラフィティ』(新潮社, 1983年)。『ダグアウトの25人』(ベースボール・マガジン社, 1985年)。『ベースボール・スケッチブック:24のプロ野球物語』(講談社, 1985年)。『ルーキー:もう一つの清原和博物語』(毎日新聞社, 1987年)。『バットマンに栄冠を』(角川書店, 1988年)。『スタジアムで会おう』(朝日新聞社, 1992年)。『最後の夏:一九七三年巨人・阪神戦放浪記』(マガジンハウス, 1995年)。『山際淳司スポーツ・ノンフィクション傑作集成』(文藝春秋, 1995年)。その他、ゴルフ、ボブスレー、ボクシング、登山、、、などの著作や翻訳などもある。徹底的な取材と冷静な分析、そしてそれに裏打ちされた分かりやすい文章で定評があった。

スポーツキャスターとしても山際は活躍する。ユーチューブでNHKの難組をみた。ハンサムで理知的な風貌だ。九州場所千秋楽の横綱曙に大関貴ノ花が勝った名勝負、甲子園決勝の佐賀西高の満塁ホームランなどを解説していた。はぎれのよい語り口である。

時間を見つけてはスポーツ、特に野球の現場を歩いた。自身でもスポーツ・フリークと書いている。スポーツには、ある時代の空気に中に冷凍保存されてしまったかのように、いつ思い出しても新鮮さを失わないという一面がある、という。その通りだ。

「登場人物は年々変わっても。野球というゲームそのものは変わらない」。山際淳司は通りすがりの通行人の役割だと意識していた。年譜をみると膨大な仕事をしていることに驚いた。46歳でガンで急逝する。あまりにも若い死である。私はその年あたりでJALを辞め、宮城大、多摩大と職場を移って20年以上経った。そういった年月は山際淳司にはなかったのだ。同世代で団塊世代の山際が病を得ずにそのまま仕事をしていたら、日本のスポーツも違った風景になっていたであろうと惜しまれる。

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