3月27日。大塩平八郎 「四海困窮せば天禄永く絶えん、小人に国家を治めしめば災害並び到る」

大塩 平八郎(おおしお へいはちろう、寛政5年1月22日(1793年3月4日)- 天保8年3月27日(1837年5月1日))は、江戸時代後期の儒学者、大坂町奉行組与力。大塩平八郎の乱を起こした。

天保の飢饉に際し「救民」を掲げた大塩平八郎の乱で知られる大塩は、飢饉に伴う打ちこわしの鎮圧のためと称して、与力同心の門人に砲術を中心とする軍事訓練を開始していた。献策が却下された後、蔵書を処分するなどして私財をなげうった救済活動を行うが、もはや武装蜂起によって奉行らを討ち、豪商を焼き討ちして灸をすえる以外に根本的解決は望めないと考え、蜂起を計画するが密告によって失敗し、最後は自決する。

大塩は「知行合一」で知られる陽明学者であっった。すべての人に初めから備わっている良知を磨き続けること(「至良知」)が大切であるとし、そのために「事上練磨」を強調した王陽明の考えは、訓詁学に堕した朱子学と対立する一大思潮に育っていく。日本では、大塩と書簡のやりとりを頻繁にした佐藤一斎などがこの系譜である。

この人には逸話が多い。頼山陽からは「小陽明」と学識ぶりを賞賛された。与力時代は、午前2時に起きて天空を観測、潔斎と武芸の後に朝食、午前5時には私塾・洗心洞の門弟を集めて冬の寒風の時も平気で講義。その後出勤。帰宅後、夕方には就寝という日常だった。

「身の死するを恐れず ただ心の死するを恐るるなり」という大塩は同時代の探検家・近藤重蔵と会ったとき、互いに「畳の上では死ねない人」という印象を与えた。

大塩は知ることは行うことによって完成するという陽明学を実践した人である。この系譜は西郷隆盛などに受け継がれ明治維新の原動力になっていくのだが、この学問にとりつかれた人は革命家、改革者に育っていくから、多くは非業の死に斃れることになる。大塩平八郎はその最初の人であったと思う。

現代の「実学」は、陽明学の系譜にあるのではないか。学んで知識を得ることは始まりであって、それを社会の問題解決に生かしてさらに深めていき、次の高みに立って新たな知識を求めていく。そういうダイナミックなサイクルが、現代の陽明学たる「実学」であろう。



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