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「名言との対話」8月27日。松旭斎広子「マジックは夢を売る仕事だと思っています」

「名言との対話」8月27日。松旭斎広子「マジックは夢を売る仕事だと思っています」

松旭斎広子(1916年10月20日〜2007年8月27日)は、マジシャン。

13歳で松旭斎天勝一座に入る。5年間はダンス、日舞、声楽、パントマイム、太鼓、三味線、マンドリン、そして奇術のの基礎を学んだ。巡業は九州から北海道、外地では樺太、満州、朝鮮、台湾までの興行に参加した。21歳、助手の山崎金之助と結婚。山崎は後見の名人だったが、1977年に死去する。

1944年、初代天勝が没し、広子は夫一座を結成し、独立する。1947年、占領米軍兵士の慰問のライセンスをGHQからもらう。日劇ミュージックホールや大阪梅田のミュージカルホールに出演する。1951年、松旭斎広子一座を再旗揚げNHKテレビにも出演した。1968年、日本魔術団を結成し、日劇、大阪万博でも公演している。1972年、有楽町よみうりホールで「日本の奇術」を公演し、翌年文化庁・芸術優秀賞を受賞。1982年、黄綬褒章。1994年にはテンヨー手品フェスティバルで80歳の広子は出演し、トリを「つとめている。「魔術の女王」として活躍し、1982年日本奇術協会会長に就任した。91歳で没。

大道具仕掛けの奇術が得意で、「人造人間」、「ガラス箱」、「野獣と美女」、「伸縮する女体」、「大砲」などが代表作だ。

松旭斎広子は「マジックは夢を売る仕事だと思っています」に続けて、「マジックの楽しさを知っていただきたい。マジックは夢を与える、見る側は夢を持ってみていただく、というのが理想です」、としている。

さて、そもそもマジシャンとは誰のことか。 奇術師、あるいは手品師と訳すべきか。マジシャン派遣会社の「MAGICDOOR」によれば、磨き上げたテクニックで、「見ている人に驚きと夢のような感動や興奮を与える職業」と説明している。高橋匠、引田天功などが現在のトップランクのマジシャンだが、小道具を使うテーブルマジック、大型の仕掛けを用いるステージマジック、心理学を応用したメンタルマジックなどさまざまな種類がある。各種イベント、ホテル、飲食店などでみかけることがあり、すそ野は広い。そして若者にマジックが流行しているそうだ。

バブル時代だったか、JAL時代に赤坂で、俳句の江國滋先生と食事をしたとき、めったに見せないカードマジックを披露してもらって感嘆したことがある。同じく俳句の日本語への名翻訳者だったジャクスタムのカードマジックも酒場でみたことがある。

2005年に仙台で東京から見えた編集者と同行してきたマジシャン(肩書きにはマジック・アーティストと書いてあった)と知り合い、いくつかのマジックを見せてもらった。きれいで不思議なマジックに魅了された。二つほど、ツールをもらい、私も実演してみたが、うまくいった。リングを使うマジックとトランプを使うマジックだ。自宅で、習ったマジックを家族に披露した。みんなの驚きが嬉しかった経験がある。

マジックという言葉を思いつくままあげてみる。仰木マジック。マジック・セナ。吉田五十八マジック。北斎視角のマジック。小出マジック。イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)。、、、、。野球人、建築家、画家、レーサー、スポーツ指導者、音楽家などの快挙をあらわす場合などにも使われている。本物のマジシャンの松旭斎広子と同じように、信じられないほどの驚きの成果を挙げ、人々に「夢」を与える人々もマジシャンなのであろう。

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