9月30日。 朴正煕(パク・チョンヒ)「百の理論より一つの実践が要望され、楽しい分裂より苦しい団結がなければならず、他をくじくことよりも助けることを知り、惜しむことを知らねばならぬ」
朴 正𤋮(パク・チョンヒ、朝鮮語: 박정희、日本語読み: ぼく せいき、1917年11月14日〈時憲暦9月30日〉 - 1979年10月26日)は、韓国の軍人、政治家。
1961年の軍事クーデターで国家再建最高会議議長に就任。1963年から1979年まで16年間にわたり大統領として国を指導し、30年間にわたる「漢江の奇跡」を実現し、韓国は世界最貧国から脱出した。しかし1974年には妻を暗殺され、また自身も独裁者として批判され1979年に側近によって暗殺された。後の朴 槿恵(パク・クネ)大統領(1952年生)はその二つを目撃している。
日本の影響下にあった満州国の士官学校を首席で卒業し、留学した日本の陸軍士官学校を首席で卒業し卒業式で答辞を読んだ職業軍人である。酒を飲むと日本の軍歌を歌った。1965年には佐藤栄作総理と日韓基本条約を批准し国交を正常化した。
「日本の朝鮮統治はそう悪かったと思わない。自分は非常に貧しい農村の子供で学校にも行けなかったのに、日本人が来て義務教育を受けさせない親は罰すると命令したので、親は仕方なしに大事な労働力だった自分を学校に行かせてくれた。すると成績がよかったので、日本人の先生が師範学校に行けと勧めてくれた。さらに軍官学校を経て東京の陸軍士官学校に進学し、首席で卒業することができた。卒業式では日本人を含めた卒業生を代表して答辞を読んだ。日本の教育は割りと公平だったと思うし、日本のやった政治も私は感情的に非難するつもりもない、むしろ私は評価している。 」
「我が半万年の歴史は、一言で言って退嬰と粗雑と沈滞の連鎖史であった」という朴は、事大主義と属国性を脱却し、韓国近代化のために手段を選ばない開発独裁体制を推進したのだが、私人としては清廉であったとの評価がある。「子孫のために美田を残さず」という西郷隆盛を尊敬していた影響であろう。韓半島の統一で民族国家の威勢を示すことを目指した朴大統領は、難しい時代環境の中で、理論よりも実践、分裂よりも団結を重んじながら、故国の発展の礎を築こうとしたのだ。リーダーのスタイルは、必ずしもその人固有のものではない。遭遇した時代と周囲の環境と自らの力量との相関の中で、現下のテーマに沿ってどのような形のリーダーシップを選ぶかという選択なのだ。