見出し画像

11月19日。内海広重「ふろに入れない日は、入山客が環境について考えるいい機会だった」

内海広重(?-2009年11月19日)は、「尾瀬の自然を守る会」初代代表。享年74。

日本自然保護協会や日本山岳会の創設者だった武田久吉氏の弟子で、日本の自然保護の黎明期から定着期にかけて活躍した。

尾瀬を縦貫する観光道路建設計画の反対運動をきっかけに1971年に発足した「尾瀬の自然を守る会」代表として、尾瀬の長蔵小屋3代目の平野長靖らとともに、1970年代以降、尾瀬の自然保護運動に取り組んだ。平野は京大を出て北海道新聞に勤めたのち、山小屋の仕事を父とやっている人で、大石武一環境庁長官に直訴したと大石武一『尾瀬までの道』に出てくる。尾瀬危機を熱く語る直訴なくして、今日の尾瀬の姿は無かった。紆余曲折の後に、道路建設計画は中止された。

新入社員時代に、同期入社の仲間たちと尾瀬の水芭蕉咲く自然を楽しんだことがある。その素晴らしい自然は内海たちの努力で維持されていたのである。この時は今から思えば、この大騒動の直後だったのだ。

内海は東京農大一高の生物教諭として、教育現場でも環境教育に取り組んだが、1995年尾瀬保護財団が発足したのを機に、1996年に守る会を解散し、1997年旧月夜野町(現:みなかみ町)に奥利根自然センターを設立し、所長に就任した。

1990年に日光国立公園・尾瀬地域の尾瀬山小組合は宿泊客の多い土曜日に年間10-15日の風呂の休みを設けた。風呂の排水による植生の変化を防ぐためだった。泊り客の要望に応えて「風呂休止日」を撤廃することになったとき、内海広重は「風呂に入れない日は、入山客が環境について考えるいい機会だった。自然を保護しようという機運が高まってきたのに、残念だ」と話している。多少の不便を感じることで、「なぜなのか」という問いを発し、その意味をかみしめる。環境保護の意識を育もうとする態度を維持し、自然を護ろうとする運動の立役者・内海広重らしい発言である。この精神を受け継いでいこう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?